の赤本、黒本、金平本《きんぴらぼん》、黄表紙、洒落本《しゃれぼん》、草双紙、合巻物《ごうかんもの》、読本《よみほん》といった種類のものをこみで一手に集めて来たものらしいから、白雲は、
「こりゃ大変だ」
といって手に触れず、
「洋学の本はないかね、横文字の……」
「へえ、洋学の方でございますか、左様でございます、華英通語はこのあいだ差上げましたかしら……」
「うむ、あれは貰ったよ」
「では、築城と石炭のことを書いた翻訳書が二三冊ございますが……」
「築城と石炭――それは少し困る、何かほかに向うの歴史、風俗、絵のことなどがわかるといったような書物はないかい」
「左様――」
亭主はあれかこれかと店と書棚を見廻し、
「ここに一冊、唐人往来というのがございます……」
「何だい、それは――」
「この通り写本でございますが、これになかなか、あちらのことが詳しく書いてあって面白いと皆様がおっしゃいます」
「どれ――」
田山白雲は二十枚綴ばかりの写本を、亭主の手から受取りました。
「唐人往来――誰が書いたんだ」
「どなたがお書きになりましたか、なかなかあちらのことに詳しいお方がお書きになって、出版はなさらずに、こうして写本で、諸方へ分けてお上げになったのでございます」
「江戸、鉄砲洲《てっぽうず》某稿としてある、面白そうだ」
白雲はそれを買い求める気になりました。
白雲はその書物を買って来て両国橋の仮寓《かぐう》へ帰り、即日その書物を読みはじめましたが、実に、こんな面白い本はないと思いました。
彼は面白い本を求めて、求め得たのです――といっても、それは自分の求める西洋の美術知識のことなんぞは一言も書いてはありませんが、僅かの小冊子の間に、西洋というものの輪廓[#「輪廓」はママ]を描いて人に知らしめる上には、こんな、痒《かゆ》いところへ手の届く本はないと思いました。
なぜ、もっと早く、こんな面白い本を読まなかったのだろう。尤《もっと》も、出版はされず、写本として知人に配布されただけの書物だということだから、今まで自分の眼に触れなかったのも止むを得ないが、いま読んでも、読むことの遅かったのを悔ゆるばかりです。
第一、その文章からして、従来の漢学臭味《かんがくしゅうみ》を脱している上に、平易明快で、貝原益軒《かいばらえきけん》をもう少し大きく、明るくしたような書きぶりが頭に残ります。
それにしても著者は何者。署名はなくて、ただ、「江戸、鉄砲洲某稿」としてある。当代に名だたる洋学者の筆のすさびだろうとは思われますが、誰とは当りがつきません。例えばその文章は、
[#ここから1字下げ]
「先年、亜米利加《アメリカ》合衆国よりペルリといへる船大将を江戸へ差遣《さしつか》はし、日本は昔より外国と付合なき国なれども……」
[#ここで字下げ終わり]
という書出しで、諸外国と交誼《こうぎ》を修し、通商貿易を求めに来《きた》るのを、
[#ここから1字下げ]
「日本国中の学者達は勿論《もちろん》、余り物知りでなき人までも、何か外国人は日本国を取りにでも来たやうに、鎖国の、攘夷《じょうい》の、異国船は日本海へ寄せ付けぬ、唐人へは日本の地を踏ませぬなど、仰山に唱へ触らし、間には外国人を暗打《やみうち》にするものなど出来《いでき》て、今のやうに人気の騒ぎ立つは、ただ内の騒動ばかりでない、斯《か》く人心の片意地なるは世間へ対しても不外聞至極ならずや。元来何の悪意もなく、一筋に異人を嫌ひ、異人が来ては日本の為にならぬと思ひ込みたる輩《やから》は、自分には知らぬ事ながら我が生国《しやうこく》の恥辱を世間一般に吹聴《ふいちやう》するも同様にて、気の毒千万なれば、この人々の為め聊《いささ》か弁解すべし……」
[#ここで字下げ終わり]
という見識はたしかにその時代の一般はもちろん、学者の頭を抜いている。
それから、世界の広さを一里坪にして八百四十万坪あり、これを五に分ち五大洲という。その五大洲中ヨーロッパの文明が世界に冠たることを説き、その文明国を夷狄視《いてきし》することの浅見より、支那の覆轍《ふくてつ》を説いての教え方も要領を得ている。
次に右五大洲中八百四十万坪の中に住む人口をほぼ十億と数え、そのうち、日本人は数およそ三千万あるゆえに、世界中の人数と比例すれば、九十七人と三人の割合に過ぎないという数字も、大ざっぱながら親切で、当時の粗雑にして空疎なる人の頭に、印象を強くしてなるほどと思わせ、
[#ここから1字下げ]
「さて今|何《いづ》れの国にもせよ、百人の人あり、その中九十七人は睦《むつま》じく付合往来するところへ、三人は天から降りたるもののやう気高《けだか》く構へ、別に仲間を結んで三人の外は一切交りを絶ち、分らぬ理窟を言ひながら自分達の風に合はぬと畜生同様に
前へ
次へ
全88ページ中61ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング