しゃくしゃく》たるその態度。構え方に一点の隙を見出すことができない。
 事実、三宅三郎も、今日までにこれほどの名人を見たことがない。心中、甚だ焦《あせ》ることあって、しきりに術を施さんとして、わざと隙を見せるが、先方の泰然自若たること、有るが如く、無きが如く、少しもこっちの手には乗らない。
 勝とうと思えばこそ、負けまいと思えばこそ、そこに惨憺《さんたん》たる苦心もあるが、最初から負けようと思ってかかる立合には敵というものがない。しかもその負けることだけに二年有余の修行を積んでいる武芸者というものは、けだし、天下に二人となかろう。余裕綽々たるもその道理である。
 この意味に於て南竜軒は、たしかに無双の名人である。
 至極の充実は、至極の空虚と一致する。
 これを笑う者は、やはり剣道の極意を語るに足りない。道というものの極意もわかるまい。
 さて、三宅三郎は、どうにもこうにも、南竜軒の手の内がわからないが、そうかといって、剣術というものは、竹刀を持って突立っているだけのものではない。ものの半時《はんとき》も焦り抜いた三宅氏も、これでは果てしがないと思い切って、彼が竹刀の先を軽く払って面を打ち込んでみた。
「参った!」
 その瞬間、南竜軒はもう竹刀を下に置いて、自分は遥かに下にさがって平伏している。三宅氏は呆《あき》れてしまった。
 事実、今のは面でもなんでもありはしない。面金《めんがね》に障《さわ》ったかどうかすらも怪しいのに、それを先方は鮮かに受取ってしまったのだから、三宅氏が呆れたのも無理はない。呆れたというよりも寧《むし》ろ恥じ入ってしまったのだ。自分がこの大名人のためにばかにされ、子供扱いにされてしまったように思われるから、顔から火の出るほどに恥かしくなった。
「山本先生、ただいまのは、ほんの擦《かす》り面《めん》、ぜひもう一度お立合を願いたい」
 しかるに、相手の大名人は謙遜を極めたもので、
「いやいや恐れ入った先生のお腕前、我々|風情《ふぜい》の遠く及ぶところにあらず」
と言って、どうしても立合わない。
「では、門弟共へぜひ一手の御教授を……」
と願ってみたが、先生に及ばざる以上、御門弟衆とお手合せには及ばずと、これも固く辞退する。止むを得ず、三宅氏は数名の門弟と共に、大名人を招待して宴を張る。
 その席上、改めて三宅氏は南竜軒に向い、何人《なんぴと》について学ばれしや、流儀の系統等を相訊《あいたず》ねると――南竜軒先生、極めて無邪気正直に一切をブチまけてしまった。
 これを聞いた三宅氏は胸をうって三嘆し、今にして無心の有心《うしん》に勝るの神髄を知り得たり、といって喜ぶ。

 道庵先生、この型を行ってみたいのだろうが、そうそう柳の下に鰌《どじょう》はいまい。

         二十

 田山白雲は、伝馬町の鱗屋《うろこや》という古本屋の前へブラリとやって来て、
「何か面白い本はないかね」
「左様、面白い本は……」
「面白い本があったらひとつ見せてもらいたい」
「ああ、左様左様、面白いものを少しばかり纏《まと》めて手に入れましたから、お目にかけましょう」
「面白いものを纏めて手に入れたのは結構、見せてもらいたい」
 白雲が腰をかけると、亭主は書物を山のように持ち出し、
「なかには相当に面白いものがございます」
「どれ……」
「古いのには、年一年面白いものが減って参りますのに、新しい方は、なかなか面白いものが出ませんので困ります」
 客が面白い本はないかと言ったので、亭主は面白い本があるという。おたがいに面白ずくで商売をしているようです。
 この時分には現代のように、雑誌学問の青二才までが、興味中心だの、芸術本位だのと、歯の浮くようなことを言わなかった時代ですから、面白いという言語の中には、すべて注目に値するほどのものを包含していたのでしょう。ですから翻訳すると、「何か注目に値する書物はないかね?」「ございます、なかなか掘出し物がございます」という程度の意味のものでしょう。
 されば佐藤一斎の講義が面白かったという場合もあれば、曲亭主人の小説が面白かったという場合もあります。
 白雲がいま求める面白い本というのは、さしあたり着手した洋学の初歩に関する、東洋の美術よりは西洋の美術に関して、何か特殊の知識を与えられるような書物はないかと尋ねた意味でありましょう。
 しかし、亭主の取り出して示した山のような書物は、そういった意味の面白い書物ではありませんでした。
「端本《はほん》が多うございますけれども、これだけ種類を集めますのが骨でございます」
「こりゃ大変だ」
 山の如く持ち出された書物を、白雲は横目に見て、驚いた顔をしたが、手には取ろうとしません。その書物というのは、白雲の求むるところのものとは違って、旧来ありきたり
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