ぜ。
友達殿曰く、そうさ、打たれたのが最後だ、どこでもいいから打たれたと思ったら、お前は竹刀を前に置いて、遥《はる》か後ろへ飛びしさり、両手をついて平伏し、恐れ入りました、われわれの遠く及ぶところではござらぬといって、丁寧にお辞儀をしてしまうのだ。
なるほど――
そうすれば、先方の大先生、いや勝負は時の運、とかなんとかいって、こちらを労《いた》わった上に、武芸者は相見たがいというようなわけで、一晩とめて、その上に草鞋銭《わらじせん》をくれて立たせてくれるに相違ない。芳名録を取り出して先生に記名してもらう。その芳名録を携えて、次の道場を同じ手で渡って歩けば、日本全国大威張りで、痛い思いをせずに武者修行ができるではないか。
「なるほど」
南竜軒は首をひねって、暫くその大名案を考え込んでいたが、ハタと膝を打って――
面白い、これはひとつやってみよう、できそうだ。できないはずはない理窟だ。
そこでこの男はデロレンをやめて、速成の武者修行となる。形の如く堂々たる武者修行のいでたち成って、神戸から江戸へ向けて発足《ほっそく》。
名乗りも、芸名そのままの山本南竜軒で、小手調《こてしら》べに、大阪の二三道場でやってみると成績が極めてよい。全く先方が、誂《あつら》え通りに出てくれる。一つ打たれさえすれば万事が解決して、至って鄭重《ていちょう》なもてなし[#「もてなし」に傍点]で餞別《せんべつ》が貰える。
そこにはまた、道場の先生の妙な心理作用があって、この見識の高い風采《ふうさい》の堂々たる武者修行者、弟子を眼中に置かず、驀直《まっしぐら》に師匠に戦いを挑《いど》んで来る修行者の手のうちは測り難いから、勝たぬまでも、見苦しからぬ負けを取らねば門弟への手前もあるという苦心が潜むところへ、意外にも竹刀《しない》を動かしてみれば簡単な勝ちを得た上に、先方が非常な謙遜《けんそん》の体《てい》を示すのだから、悪い心持はしない。そこで、どこへ行っても通りがよくなる。
部厚《ぶあつ》の芳名録には、一流の道場主が続々と名前を書いてくれるから、次に訪ねられた道場では、その連名だけで脅《おどか》される。
かくて東海道を経て、各道場という道場を経めぐって江戸に着いたのは、国を出てから二年目。さしも部厚の芳名録も、ほとんど有名なる剣客の名を以て埋められた。
天下のお膝元へ来ても、先生その手で行こうとする。その手で行くより術《すべ》はあるまいが、いったん味を占めてみると忘れられないらしい。事実、こんな面白い商売はないと思っている。
そうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ来た。
この三宅という人は心形刀流《しんぎょうとうりゅう》の達人で、旗本の一人ではあり、邸内に盛んなる道場を開いて、江戸屈指の名を得ている。
そこへ臆面《おくめん》もなく訪ねてきた山本南竜軒。例の二十七貫を玄関に横づけにして頼もうという。門弟が応接に出ると例によって、拙者は諸国武者修行の者でござるが、当道場の先生にもぜひ一本のお手合せが願いたい――これまで各地遍歴の間、これこれの先生にみな親しくお立合を願っている――と例の芳名録を取り出して門弟に示すと、それには各地歴々の剣客が、みな麗々《れいれい》と自筆の署名をしているから、これは大変な者が舞い込んだ、と先生に取次ぐ。道場主、三宅三郎もそれは容易ならぬ客、粗忽《そこつ》なきように通しておけと、道場へ案内させて後、急に使を走らせて門人のうち、優れたるもの十余人を呼び集める。
そこで三宅氏が道場へ立ち出でて、南竜軒に挨拶があって後、これも例によって、まず門弟のうち二三とお立合い下さるようにと申し入れると、南竜軒は頭を振って、仰せではござるが、拙者こと、武者修行のために国を出でてより今日まで二年有余、未だ曾《かつ》て道場の門弟方と試合をしたことがない、直々《じきじき》に大先生とのみお手合せを願って来た、しかるに当道場に限ってその例を破ることは、この芳名録の手前、いかにも迷惑致すゆえに、ぜひぜひ、大先生とのお手合せが願いたい――と、いつもやる手で、二年余り熟練し切った口調で、落ちつき払って申し述べる。
そういわれてみると、三宅先生もそれを断わるわけにはゆかない。ぜひなく、それでは拙者がお相手を致すでござろろう。
そこで、三宅先生が支度をして、南竜軒に立向う。
南竜軒は竹刀《しない》を正眼《せいがん》につける。三宅先生も同じく正眼。
竹刀をつけてみて三宅三郎が舌を巻いて感心したのは、あえて気怯《きおく》れがしたわけでもなんでもない、事実、南竜軒なるものの構え方は、舌を巻いて感心するよりほかはないのであった。
最初の手合せで、しかも江戸に一流の名ある道場の主人公その人を敵に取りながら、その敵を眼中におかず、余裕綽々《よゆう
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