いい仕事はないかい。
あるある、そのことなら大ありだ。実はおれもつくづく日頃からそれを考えていたのだ。全くお前ほどのものを祭文語りにして置くのは惜しい、お前、やるつもりなら打ってつけの仕事がある――と友達がいう。
何だい、おれにやれる仕事は?――なお念のためにいっておくが、図体は大きくても、法螺の貝を持つだけの力しかないのだぜ、力業《ちからわざ》は御免を蒙《こうむ》るよ。
そんなのではない、別段骨を折らず、大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける法がある。他人ではできないが、お前なら確かに勤まる。
はて、そんな商売があるものか知ら。骨が折れずに、大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける法があるならば、早速伝授してもらいたい。
ほかではない、それは武者修行をして歩くのだ、と友達がいう。
南竜軒先生、それを聞いて呆《あき》れかえり、そんなことだろうと思った、武者修行は結構だ、法螺の貝から、岩見重太郎か、宮本武蔵でも吹き出して、お供に連れて歩けばなお結構だと、腹も立てないから茶化しにかかると、友達の先生一向ひるまず、
たしかに、お前は武者修行をすれば大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける。剣客におなりなさい。剣術の修行者だといって、到るところの道場をめぐってお歩きなさい。到るところの道場では、お前を丁寧にもてなして泊めてくれた上に、草鞋銭《わらじせん》をまで奉納してくれるに相違ない。こんないい商売はあるまいではないか。
なるほど、それはいい仕事に相違ないが、おれには剣術が出来ない、竹刀《しない》の持ち方さえも知らないのを御承知かい。
そこだ、憖《なま》じい出来るより、全く出来ない方がよい。そこを見込んでお前に武者修行をすすめるのだ。少しでも出来れば、ボロの出る心配があるが、全く出来なければ、ボロのでようがない。その方法を伝授して上げよう。
まず第一、お前の体格なら、誰が見ても一廉《ひとかど》の武芸者と受取る。そこで、武芸者らしい服装をして、しかるべき剣術の道具を担って、道場の玄関に立ってみろ、誰だって脅《おどか》されらあ。
南竜軒、首を振って、詰らない、最初に脅しておいて、あとで足腰の立たないほどブン擲《なぐ》られる。
友達の曰《いわ》く、そこにまた擲られない方法がある。
とはいえ、武芸者として推参する以上は、立合わぬわけにはいくまい、立合えばブン擲られるにきまっている。
けれでも、そこを擲られないで、かえって尊敬を受ける秘伝があるのだが――
それは聞きたいものだね、そういう秘伝があるならば、それこそ一夜にして名人となったも同然。
南竜軒もばかばかしいながら、多少乗り気になったが、友達の先生はいよいよ真顔で――
しかし、一つは擲《なぐ》られなければならぬ、それもホンの一つ軽く擲られさえすれば済む。それ以上は絶対に擲られぬ秘伝を伝授して上げよう。
頼む――多分、牛若丸が鞍馬山で天狗から授かったのが、そんな流儀だろう。それが実行できさえすれば、明日といわず武者修行をやってみたいものだ。
よろしい、まずお前がその二十七貫を武芸者らしい身なりに拵《こしら》え、剣術の道具を一組買って肩にかけ、いずれの道場を選ばず玄関から、怯《お》めず臆《おく》せず案内を頼む。
取次が出て来たところで、武者修行を名乗って、どうか大先生《おおせんせい》と一つお手合せを願いたくて罷《まか》り出でたと申し出る。
道場の規則として、大先生の出る前に、必ずお弟子の誰かれと立合を要求するにきまっている。その時、お前はそれを拒《こば》んでいうがよい。いや、拙者はお弟子たちに立合を願いに来たのではない。直接《じか》に大先生に一手合せを、とこう出るのだ。
先方は多少、迷惑の色を現わすだろうが、立合わないとはいうまい。立合わないといえば卑怯《ひきょう》の名を立てられる――そこで道場の大先生が直接にお前と立合をすべく、道場の真中へ下りて来る。
南竜軒、ここまで聞いて青くなり、堪らないね、お弟子のホヤホヤにだって歯は立たないのに、大先生に出られては、堪らない。
そこに秘伝がある――大先生であれ、小先生であれ、本来剣術を知らないお前が、誰に遠慮をする必要があるまいもの、いつも祭文でする手つきで、こう竹刀《しない》を構えて大先生の前に立っているのだ。
それから先だ、そこまでは人形でも勤まるが、それから先が堪るまいではないか、と南竜軒が苦笑する。
友達殿はあくまで真面目くさって、それからが極意《ごくい》なのだ、そうして立合っているうちに、先方が必ず打ち込んで来る。面《めん》とか、籠手《こて》とか、胴《どう》とかいって、打ち込んで来る。
南竜軒の曰《いわ》く、打ち込んで来れば、打たれちまうじゃないか、こっちは竹刀の動かし方も知らないんだ
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