、やりそこなうと生命に別条がある――たとえ米友がありといいながら、これは危なげのあり過ぎる道楽である。よした方がよい。だが道庵の意気は冲天《ちゅうてん》の勢いで、留めて留まらぬ勇ましさは、その足どりでもわかります。もう既にいっぱしの荒武者気取りで、善光寺前の藤屋という宿へ、大風《おおふう》に一泊を申し込んで番頭を驚かせました。
宿へ納まってから、改めて米友を呼んで、申し渡すことには、
「あの祭文《さいもん》を聞いてから急に武者修行をやってみたくなった、そこで友様、済まねえがお前は武芸の方で、俺のお弟子分になってもらいてえ、そうして、木曾街道から名古屋、京大阪をかけて、道場という道場を荒し廻って、武芸者という武芸者に泡《あわ》を吹かせてやりてえ、第一そうして道場めぐりをして歩けば、宿賃が浮くだけでも大したものだ」
道庵先生としては詰らないことをいったものです。道場荒しの意気組みはまあいいとしても、宿賃が浮くなんぞは甚だ吝《けち》であります。道場めぐりで、宿賃をかすろうというような、さもしい道庵ではないはずだが、言葉のはずみで、そんなことを言ってしまったものでしょう。果して米友は軽々しくそれに賛成しない。第一武芸には、上には上があるものだから、そう物好きをやるべきものではない――という米友の諫言《かんげん》は正当にして穏健なるものだが、そうかといって思い止まるには、道庵に自信があり過ぎる。
この自信が、匙一本で、幾千の人を、生かしたり、殺したりする自信だからたまらない。
米友も実は心配している。道庵先生、しきりに強がりをこそ言うが、武術なんぞの素養は薬にしたくも持合わせていないことは、米友がよく知っている。万一、若い時、多少やったにしたところが、この年で、今まで休んでいれば、とうてい他流試合なぞに堪えられるものではあるまい。
どういうつもりだか料簡《りょうけん》がわからない。しかし、道庵の料簡のわからないのは今に始まったことではなく、米友には全部わからないし、また、やはり道庵は偉い先生で、そのする事、なす事が、自分らの頭では解釈し切れないのだと米友は信仰しているのだから、全然料簡のわからないことをやり出しても、それが時間を経《ふ》ると、相当の意義を齎《もたら》して来ることもあるのだから、どうも仕方がない、御意のままに任せるよりほかは――
そこで、武者修行を主張する道庵にも相当の自信があるので、吾々がそう危ながるほどの危険はないのかも知れない。また万一の危険の際には、及ばずながら自分が飛び出そうとの決心もあるから、賛成はしないが、強《し》いて反対するのでもありません。
米友を口説《くど》き落したつもりの道庵は、いよいよ有頂天《うちょうてん》で、多年の慈姑頭《くわいあたま》をほごして、それを仔細らしく左右に押分け、鏡に向ってしきりに撫でつけているところは、正気《しょうき》の沙汰《さた》とも見えません。被布《ひふ》なんぞはニヤけていけねえ、脇差もこんな短けえんではいけねえ――道庵は衣裳、持物の吟味までも始めたが、肝腎の道場訪問の儀式作法に至っては、研究する模様もなし、米友に訊ねようとの気色《けしき》も見えない。
総髪を左右に押分けた急拵《きゅうごしら》えの張孔堂正雪。
悪い洒落《しゃれ》だ……と米友も呆《あき》れましたが、これというのも、あの祭文語《さいもんがた》りを聞いて昂奮したせいだろう。祭文が無暗に武勇伝を語って聞かせるのも考えものだと、米友が思いました。
道庵が、どうしてこうも武者修行をやってみたいのだか――その最初の動機は、いま米友が心配しているところの如く、祭文語りから来たのも因縁でありますが、これには奇《き》にして正《せい》なる一場の物語がある。その物語たるや極めて興味あるエピソードとなすに足る。
件《くだん》の物語の主人公は祭文語りであって、その祭文語りが、無能が大能に通ずるの真理を極めて滑稽なる仕方で現わしたところに、無限の興味があります。
十九
天保の初め頃、神戸に一人の祭文語りがあった。この男、身の丈五尺九寸、体量二十七貫、見かけは堂々たるものだが、正味は祭文語り以上の何者でもなく、祭文語り以下の何者でもない。芸名を称して山本南竜軒と呼び、毎日デロレンで暮している。
男子生れて二十七貫あって、デロレンでは始まらない、と先生、ある日のことに、商売物の法螺《ほら》の貝を前に置いて、つくづくと悲観する。
ところへ友達が一人遊びにやって来て、大将何を考え込んでいるのだと言う。
身の丈が六尺、図体が二十七貫もあって、デロレンでは情けないと、今もこうして、法螺の貝を前に置いて、涙をこぼしているところだ。そうかといって立身するほどの頭はなし、商売替えをするほどの腕もなし……何か
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