、おれもつい失念してしまったが、探り探り廻る間に一つの鍵がある、あの鍵にさわることができたものは、極楽世界に往生すると言われている。鍵には、道庵も、米友も、さわることを忘れたから、こいつは極楽往生は覚束《おぼつか》ねえぞ、弱ったなと道庵が額を逆さに撫でる。
 それにつけても、おいとしいのはあの尼宮様。やんごとなき御出身でありながら、八歳のお年より髪を卸して御仏《みほとけ》に仕え奉る。みずからの御発心《ごほっしん》でないだけに、一層おいじらしさが身にしみると、道庵が柄《がら》にもなくしおらしい同情をしたのが米友の胸をうつ。
 思い返せば、あの尼宮様の面影《おもかげ》がお痛わしい。
 道庵と、米友が、善光寺の仁王門を出でて札場のところまで来ると、そこで祭文語《さいもんがた》りが、参詣の善男善女の足を引きとめている。
 背の高い道庵は、人の後ろからこれを眺めるに骨は折れないが、背の短い米友には、何が始まっているのだかわからない。
 道庵、その祭文語りを聞くとまたいい心持になってしまいました。
 祭文語りは惣髪《そうはつ》を肩にかけ、下頤《したあご》に髯《ひげ》を生やし、黒木綿を着て、小脇差を一本さし、首に輪宝《りんぽう》の輪袈裟《わげさ》をかけ、右の手に小さな錫杖《しゃくじょう》、左には法螺《ほら》の貝、善光寺縁起から、苅萱道心《かるかやどうしん》の一節を語り出している。
 道庵が感心した顔をしてしきりに耳を傾けているものだから、米友も聞きたくなり、人の間をうろうろしてみたが、押しあけて中へ進むわけにもゆきません。
 それを一段聞くと道庵がしきりに昂奮して、軽井沢で発心《ほっしん》した武者修行の謀叛《むほん》が、むらむらと頭を擡《もた》げました。
 祭文語りの悲壮な語りぶりが、はしなくも、道庵の武士道心を刺戟したものかも知れません。
 さあこの善光寺を振出しに、明日からは、いよいよ武者修行の姿となって、木曾街道を上方《かみがた》までの道場という道場を荒してくれよう――と道庵はしきりに昂奮をつづける。
 この祭文語りが、もう少し近代風に、曾我をやるとか、義士伝を講ずるとかいうならば、道庵の昂奮もその謂《いわ》れがないではないが、何をいうにも、この祭文語りは山伏に近い古風なもので、ことに語り物が、哀婉《あいえん》たる苅萱道心《かるかやどうしん》の一節と来ているのだから、多少の菩提心《ぼだいしん》をこそ起せ、そう無暗に昂奮して、武者修行熱を起した道庵の心持は解《げ》せないものだが、道庵に言わせると、また立派にその謂れがあるのかも知れない。
 実をいうと、道庵の武者修行熱は必ずしも軽井沢に始まったというわけではなく、そのずっと以前から萌《きざ》しているので、一度はどうか武者修行をやって、至るところの道場という道場を、片っぱしから荒して歩きたいという念願が、離れたことはなかったのであります。
 それが軽井沢の出来事によって誘発せられ、小諸、上田を通って行くうちに、ここで始めようかここで……と幾度も思い込んではみたが、衣裳やらなにかの都合でそうもゆかず、とうとう善光寺までそのままで来てしまったが、ここへ来て祭文を聞いたので、またも激しくそれが誘発され、もう矢も楯も堪らず、明日からは是が非でも武者修行だと、非常な昂奮を始め、地響きを立てて善光寺の門前を驚かしたものです。
 そんなら、道庵先生自身は、それほど腕に覚えがあるのか――こういう先生のことだから、どこにどういう隠し芸を持っていないとも限らないが、軽井沢の宿でたいてい手並はわかっているではないか。しかし、昔をいえば道庵も、江戸市中の持余し者であった茶袋の歩兵を見事に取って押えて、群集をアッといわしたことがある。あれは天神真揚流の逆指《ぎゃくゆび》という手で――道庵自身にいわせると二両取りの手だというが――それから柳橋では辻斬を取って押えたこともあるという。いざといえば、匙《さじ》一本で二千人を殺したといい出す。
「先生は、まあ、昔でいえば張孔堂由井正雪《ちょうこうどうゆいのしょうせつ》といったようなもので、武芸十八般、何一つ心得ておいでにならぬのはない……」
なんぞと持ち上げようものなら、先生納まり返って、
「それほどでもねえのさ」
と顋《あご》を撫でるところなどは、全く始末にゆかないのであります。
 その先生が、今や進んで武者修行を試みようというのは、要するに米友というくっきょう無類の用心棒があればこそだろうが――単にそれだけではない、先生には先生としての奇警にして、正当なる自信を別に持っているもののようです。
 だが、道庵先生がドンキホーテを読んで、その興味に駆《か》られて武者修行を思い立ったものとも思われません。
 他の道楽は大抵、間違っても多少の恥を掻《か》くだけで済むが、武者修行は
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