、どうかこうか、二人は善光寺本堂の外陣のお通夜の間に入り込んで、数多《あまた》の群衆の中へ割込みました。
ほどなく朝参りの団体も押しかけて来る。善光寺の内外は人で満たされる。
道庵は、お通夜と朝参りの群衆の中へ坐り込んで、人の温気《うんき》でいい心持になり、前後も知らず居眠りの熟睡をはじめる。
これによって見ると、道庵は善光寺へ参拝に来たのだか、居眠りに来たのだかわからない。米友はまた群衆の中に坐り込んでは、しきりに抹香《まっこう》の煙に巻かれている。
なんてまあ、人の混むお寺だろう。今日は特別に御縁日ででもあるのか知ら。いったい善光寺様、善光寺様と崇《あが》めて、こんな山奥へ諸国の人が集まるのがわからない。
そこで米友が、隣席の有難そうなお婆さんに訊ねてみると、お婆さんのいうことには――
この善光寺様には、日本最初の阿弥陀如来様《あみだにょらいさま》の御像があるということ。
人生れてこの寺に詣《もう》ずれば、浄土の往生疑いなしということ。
そこで、このお寺は一宗一派のものではなく、このお寺の御本尊様は、日本の仏像の総元締、神様でいえば伊勢の大神宮様と同じこと。
大神宮様所在の御地を神都と呼ぶからには、ここは仏様の仏都ともいうべきところだと説明する。
米友は、ははあ、そういったものかと思う。自分はその伊勢の大神宮様のお膝元で生れたのだが、してみればここに参詣するのも、神仏おのおの異った因縁があるのかも知れないと思う。
しかし、伊勢の大神宮様の内苑は、森厳《しんごん》にして犯すべからざるものがあるのに、このお寺の中の賑やかなこと。
暁の光、いまだに堂内に入らざるに、香の煙は中に充ちわたり、常燈《じょうとう》の明りおぼろなるところ、勤行《ごんぎょう》の響きが朗々として起る。鬱陶《うっとう》しいようでもあり、甘楽《かんらく》の夢路を辿《たど》るようでもある。坐っているうちに、なんとなく温かくなり、有難くもなって、妙な世界へ引込まれた心持で、米友は坐っていると、
「お階段めぐり」
という声で、その周囲の連中がゾロゾロと立ち上る。立ち上っていいのか、悪いのか、わからないのは米友。相変らず熟睡の居眠りから醒めない道庵。
「先生!」
米友はそこで、道庵を呼び起しました。
道庵を促してお階段めぐりも終り、やがて廊下へ出て御拝《ごはい》の蔭で草鞋《わらじ》を履《は》いている道庵と米友。ことに米友は草鞋がけ[#「がけ」に傍点]が渡し場の水でしめって少し堅いから、足へはめるのに多少の苦心を費していると、その頭を上から撫でて通るものがある。
米友、ひょいと振仰いで見ると、ただいま自分の頭を撫でて通ったのは、気品の高い一人の若い尼さんで、その周囲には数人の従者、相当年配の尼さんがついている。
人を撫でた[#「人を撫でた」に傍点]真似《まね》をする尼さんだな、と思いながら米友が見送っていると、外陣から廊下階段へ溢《あふ》れ出た善男善女が、その尼さんのお通り筋に並んで、一様に頭を下げてかしこまる。
若い尼さんは、その跪《ひざまず》いて頭を下げている無数の善男善女を、いちいちその手に持てる水晶の珠数《じゅず》で撫でて行く。おれを撫でたのもあの珠数だな、と米友が思いました。
米友は、けげんな顔をしてそれを見送っているのに、善男善女は、仰ぎ見ることさえしないで、その尼さんに通りながら撫でられる時、一心に念仏の声を揚げるものもある。この尼さんの一行の過ぐるところ、荒野の中を鎌が行くように、人がはたはたと折れて跪く。跪いて、その珠数を頭に受けることを無上の光栄とし、その法衣の袖に触るることさえが、勿体《もったい》なさの極みとしているらしい。
何のことだか米友にはよくわからない。ただその通り過ぐるあとで、
「尼宮様」
「尼宮様」
という囁《ささや》きが聞える。
そこで、道庵と、米友とは、善光寺本堂を立ち出でる。
通例の客は、まず宿を取ってから後に本堂に参詣するのが順序なのに、道庵と米友は、参籠《さんろう》を済ましてから宿の選択にかかる。
朝まだき、それでも外へ出て見ると、善光寺平野が一時に開けて、天地が明るく、朝風が身にしみて、急に風物が展開したように思われる。
明るいところへ出ると、暗いところが疑問になる。あのお階段めぐりなるもの、何の必要があってかわざわざ暗いところへ下りて、人と人とが探り合いながら暗いところを歩くのだ。
道庵が米友の不審に答えて、あれは有名な善光寺のお階段めぐりといって、ああして暗いところを歩いているうちに、心の正しからぬものは犬になるという言い伝えがあるのだが、われわれもまんざら心が曲ってばかりはいないと見えて、犬にもならずに出て来たという。
しかし、お前は途中、あの鍵へはさわることを忘れたろう
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