ある者は型から入って自由の妙境に遊び、ある者は野性を縦横に発揮して、初めて型の神妙を会得《えとく》する。
無論、宇治山田の米友のは、その後者に属するものであります。
今や、米友は陶然《とうぜん》として、その型に遊ぶの人となりました。
こんなことは滅多にないのです。かつて、甲府城下の闇の破牢の晩に、この盛んなる型を見せたことがありましたが、あの時は如法暗夜《にょほうあんや》のうちに、必死の努力でやりました。今夜のは月明のうち、興に乗じて陶然として遊ぶのです。
その型の美しさ――すべての芸道において、型の神妙に入ったものは、先以《まずもっ》て美しいというよりはいいようがない。
惜しいことにこの美しさを見るものが、月と、水とのほかにはありません。
米友が陶然として型に遊んでいる時、その型を破るものは道庵先生の声であります。
「こいつは堪《たま》らねえ、こいつは堪らねえ」
道庵が突如として、うろたえ声で騒ぎ出しましたから、米友が、一議に及ばず馳《は》せ参じました。
見れば莚の上に眼を醒《さ》ました道庵は、合羽《かっぱ》をかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てて頻《しき》りにうろたえている。
聞いてみると、今まで自分がいい心持で眠っているところへ、不意に何物か現われて、鼻っぱしをガリガリと噛《かじ》ったものがあるから、驚いて跳ね起きたところだという。
鼻っぱしをガリガリと噛られては堪らない。しかし、よく見れば道庵の鼻は完全に付いているし、四方《あたり》を見ても、何物も道庵を脅《おびやか》しに来たものの形跡を認められない。
「危《あぶ》ねえ、危ねえ、こんなところに泊っちゃあいられねえ、たしかに今、おれの鼻っぱしを噛りに来た奴がある」
といって道庵は、しきりにおびえながら、その荷物を掻《か》き集めて、こんなところには一刻もいられないというような身ぶりをする。
ははあ、それでは、さいぜんのあの犬に似て犬でないのがやって来て、道庵の寝込みを襲ったのか。
慌《あわ》てながら、うろたえている道庵を見ると、ブルブルと胴ぶるいが止《や》まない。怖いばかりではない、寒いのだ。酔っているうちこそいい心持で寝ていたが、多少醒めては、川原のまん中へ莚敷《むしろじき》では堪るまい。怖いのでうろたえているのか、寒いのに怖れをなしたのか、とにかく、眼を醒《さ》ました道庵が、一刻もここにいられないという心を起したことは確かですから、米友も出立の用意をする。
出立の用意といったところで今は真夜中過ぎ、一里の道を善光寺に着いたところで、まだ戸をあけている家はあるまい。第一、つい眼のさきの丹波島《たばじま》の渡し場だって、舟を出すまいではないか。しかし思い立つと留めて留まらぬ道庵ではある。米友もぜひなく莚を巻いて丹波島の渡し場まで来ました。
さて渡し舟はつなぎ捨てられてあるが、眠っている船頭を起すも気の毒。
道庵が心得顔に小声で米友をそそのかし、そっとその舟を引き出して乗る。
犀川の渡し、ここを俗に丹波川という。水勢甚だ急にして、出水のたびに渡し場が変る。水の瀬が早くて棹《さお》も立たない。たぐり縄で舟を渡す。
背の低い米友、やっとそのたぐり縄に縋《すが》りついたが、それを操《あやつ》ることは妙を得ている。ともかくも舟は中流に乗出す。もし、船頭が眼でも醒まそうものなら、一悶着《ひともんちゃく》を免れないが、幸いにその事もなく舟は向うの岸に着く。
飛び上った道庵は、月の光で朧気《おぼろげ》に立札の文字を読むと、平水の時は一人前五十文と書いてある――そこで百文の銭を取揃えて、舟板の上に並べて置いて、申しわけをしたつもり。
ほどなく権堂《ごんどう》の町へ入るには入ったが、どことて今時分、起きている気紛れはない。二三軒、宿屋を叩いてみたけれど、起きて待遇《もてな》そうという家もない。
後町から大門前《だいもんまえ》まで来る。道庵先生、しきりに胴ぶるいをつづけているが、そこは負惜み、もう二時《ふたとき》もたてば夜が明けるだろう、夜が明けたら最後、善光寺の町をひっくり返してくれよう。それまではまず山門の隅なりと借りて一休み――
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「江戸へ五十七里四町
日光へ六十里半
越後新潟へ四十八里二十七町」
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と大きな道標《みちしるべ》を横に睨まえ、もうこれ、ともかく五十七里も来たかなと呟《つぶや》きながら、善光寺の境内《けいだい》へはいって行く。
本来、上方《かみがた》を目的とする旅だから、追分から和田峠を越して下諏訪へ出るのが順序なのを、そこがまた道庵の気性で、信濃へ来て善光寺へ参詣をしないのは、仏を作って魂を入れぬものだと意地を張ったばっかりで、こんな寒い思いもする。
十八
それでも
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