心地でその影を追いました。
 四郡を包む川中島。百里を流るる信濃川の上《かみ》。歩み歩むといえども、歩み尽すということはありません。いわんや、立ち止まって月を見ると、四周《まわり》の山が月光に晴れて、墨の如く眼界に落ち来《きた》る。
 月を砕いて流るる川の面《おも》を見ると、枚《ばい》を含んで渡る人馬の響きがする。その響きに耳を傾けると白巾《はっきん》に面《かお》を包み、萌黄《もえぎ》の胴肩衣《どうかたぎぬ》、月毛の馬に乗って三尺余りの長光《ながみつ》を抜き翳《かざ》した英雄が、サッと波打際に現われる。青貝の長柄の槍が現われて馬のさんず[#「さんず」に傍点]を突く。それが消えると、また朦朧とした黒い物影が、行きつとまりつする。
 興に駆《か》られた米友は槍を下におくと、手頃の石を拾い取って、力を罩《こ》めて靄《もや》の中へ投げ込んでみました。
 それに驚いて、楊柳の蔭から一散《いっさん》に飛び出して、河原を横一文字に走るものがある。
 犬だろう、と米友が思いました。
 一匹が走ると、続いて思いもかけぬところからまた一匹、また一匹。
 その物が唸《うな》る――犬ではない。
 と米友は心得面《こころえがお》に杖槍を拾い上げたが、その犬に似た真黒いものの影は、靄の中に消えて、唸り声だけが尾を引いて物凄《ものすご》い。
 狼だ――犬の形をして犬でない。犬の棲《す》むべからざるところに棲むのは狼だ。
 この辺には狼がいる。飯山《いいやま》の正受《しょうじゅ》老人は、群狼の中で坐禅をしたということを米友は知らないが、これは油断がならない。見廻せば前後茫々たる川中島。
 ああ、上杉謙信ではないが、自分はあまり深入りをした。道庵先生の身の上が気にかかる。
 道庵の身の上こころもとなしと戻って見れば、道庵は狼にも食われず、無事に莚《むしろ》の上に熟睡していますから、米友も安心しました。
 酔うて沙上に臥《が》するというのは道庵に於て、今に始まったことではない。医者の不養生をたしなめるのは、たしなめる者の愚である。
 そこで米友はそのところを去って、再び川中島の川原を彷徨《さまよ》う。
 時は深夜、月は冲天にある。興に乗じて米友は、手にせる杖槍を取って高く空中に投げ上げ、それを腕で受留める。
 広東《カントン》の勇士が方天戟《ほうてんげき》を操る如く、南洋の土人がブーメラングを弄《ろう》する如く、米友は杖槍を投げては受留め、受留めては投げながら、川中島の川原の中でひとり戯《たわむ》れている。戯れながら川原の中を進み行くと、やがてまた茫々として、前後を忘れる。
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「抑々《そもそも》当流ノ元祖戸田清玄ハ宿願コレ有ルニヨツテ、加賀国白山権現ニ一七日ノ間、毎夜|参籠《さんろう》致ス所、何処《いづこ》トモナク一人ノ老人来リ御伝授有ルハ夫《そ》レコノ流ナリ」
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 米友は高らかに戸田流の目録を、そら読みに読み上げました。
 米友のは、戸田流と限ったわけではない。強《し》いて流儀をいえば淡路流《あわじりゅう》ともいうべきもの。本来は野性自然の天分に、木下流の修正を加えて、それからあとは不羈自由《ふきじゆう》であります。自由なるが故に、あらゆる格法を無視することもできる代りに、あらゆる格法を取って以てわが用に供することもできるのであります。ちょっと道場覗きをしてからが、いい形と、いい呼吸を見て取って自得する。
 それで、この男は、別段に師匠の手から切紙、目録、免許といったような印《しるし》を与えられてはいない。そうかといって、自ら進んで米友一流を開くほどの野心も、慢心も、持合せていない。
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「先ヅ槍ヲ以テ敵ニ向ヒ、切折ラレテ後、棒トナル、又棒切折ラレテ半棒トナル……」
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 そこで彼は独流の型を使いはじめました。槍から棒に変化し、棒がまた半棒に変ずるまでの型を、鮮かにやってのけました。
 自由と、乱雑とは、意味を異にする。修練を経て天分が整理されると、初めて自由の妙境が現われる。自由が発して節に当ると、それが型となって現われる。
 小人は、乱暴と、反抗とを以て、自由なりと誤想する。
 自由は型であり、礼儀であることを知らない。型は人を縛るものに非《あら》ずして、これを行かざれば、大道無きことを人に知らしむる自由の門である。
 型と、礼儀を、重んぜざる者に、大人《たいじん》となり、君子となり、達人となり、名人となり、聖域に至るの人ありという例《ためし》を聞かない。
 だがしかし、型と、礼儀に捉われた人間ほど、憐れむべきものはない。それは人間に非ずして、器械である。
 単に器械だけならばいいが、その器械が、圧搾器械でもあった日には、人間の進歩を害することこれより大なるはない。
 
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