で投げ出したものらしい。
 それを、また道庵は、いつもの短気にも似合わず、長いことかかって、懇々と説諭して、再び米友をして荷を取って肩にかけ、槍をついて出で立たしむる。
 追分から小諸までは三里半。
 まだ少々早いが、小諸の城下で泊るつもりで町へ入り込むと、早くも二人の姿を見つけた問屋場《といやば》で、
「あれだぜ、あれが一昨日《おととい》の日、軽井沢で裸松《はだかまつ》をやっつけた大将だ!」
という評判で、小諸の町へ姿を見せるが早いか、忽《たちま》ちに二人が、城下全体の人気者となってしまいました。
 一昨日の出来事、米友の武勇が、僅か六里を隔てた街道筋の要所に宣伝されているのは、早過ぎる時間ではない。裸松そのものがあぶれ者で持余《もてあま》されていただけに、それを倒した勇者の評判が高い。で、例によって輪に輪をかけられて、街道の次から次へと二人の行く先が指さしの的となる。
 その評判がなくてさえ、ひょろ高い道庵と、ちんちくりんの米友が、相伴うて歩く形はかなり道中の人目を引くのだから、まして、その人気が加わってみると、誰でもただは置こうはずがない。その勇者|来《きた》るの評判を、讃嘆しようとして出て来たものが失笑する。
 本来、正直な米友は、小さくなって道庵のあとにくっついて行くが、道庵は大気取りで、突袖に反身《そりみ》の体《てい》。
 あの小さいのが、素敵な手利《てきき》で、あれが裸松を一撃の下に倒したのだが、前のは先生で、自身は手を下さないが、あの先生が手を下す日になったら、どのくらい強いか底が知れない。小諸や、上田の藩中に、手に立つ者が一人でもあるものか――なんぞという評判が道庵の耳に入ると、先生いよいよ反身になってしまい、街道狭しと歩くその気取り方ったら、見られたものではありません。
 この得意が道庵先生をして、一つの謀叛《むほん》を起さしめたのはぜひもありません。それは、ただこうして長の道中、道庵は道庵として、米友は米友として歩いたのでは、旅の興が薄いから、その時その時によって、趣向を変えて行ったらどうだ。それにはまず、差当り、輿論《よろん》の推薦に従って、自分は武術の先生になりすまし、米友をそのお弟子分に取立てて、これからの道中という道中を、武者修行をして、道場という道場を、片っぱしから歴訪して歩いたら面白かろう。
 その事、その事と、道庵が額を丁《ちょう》と打って、吾ながらその妙案に感心しました。
 道庵に左様な謀叛が兆《きざ》したとは知らぬ米友、恥かしそうに、そのあとにくっついて、城下の巴屋六右衛門というのに泊る。
 しかしながら、その翌日は相変らずの道庵は道庵、米友は米友。
 二人ともに別段、武芸者としての改まった身姿《みなり》にもならないのは、道庵のせっかくの謀叛に、米友が不同意を唱えたわけではなく、小諸の城下を当ってみたけれども、変装用の思わしい古着が見つからなかったものらしい。
 道庵は「鍼灸術原理《しんきゅうじゅつげんり》」という古本を一冊買って、小諸の宿《しゅく》を立ちました。
 小諸から田中へ二里半。田中より海野《うんの》へ二里。海野より上田へ二里。上田より坂木へ三里六町。坂木より丹波島《たばじま》へ一里。
 丹波島から善光寺までは、もう一里十二町というホンの一息のところまで来て、犀川《さいがわ》の河原。
 この河原へ来た時に月があがったので道庵先生が、すっかりいい心持になって、渡しを渡らずに河原へ出てしまい、明日はいやでも善光寺。今晩はここで、思う存分月見をしようといい出しました。
 信州名代の川中島。月はよし、風はなし、前途の心配はなし。米友を促して、渡し場から莚《むしろ》を借り、それを河原の真中に敷いて、一瓢《いっぴょう》を中央に据え、荷物を左右に並べて、東山《とうざん》のほとりより登り、斗牛《とぎゅう》の間《かん》を徘徊《はいかい》しようとする月に向って道庵は杯をあげ、そうして意気昂然として、川中島の由来記を語って米友に聞かせました。
 米友も、信玄と謙信とには、相当の予備知識を持っている。ことに道庵が甲陽軍鑑を楯《たて》にとって、滔々《とうとう》とやり出す川中島の合戦記には、米友も知らず識らず釣込まれ、感心して聞いているものだから、道庵も、いよいよいい気になって、喋《しゃべ》るだけ喋ると、喋り疲れて、瓢箪《ひょうたん》を枕にゴロリと横になって、早くも鼾《いびき》の声です。
 夜もすがら川中島の月を見て、明日は善光寺という約束だから、米友もぜひなく、旅の合羽《かっぱ》を開いて道庵の上に打着せ、自分は所在なさに槍を抱えて河原の中へ、そぞろ歩きを始めたものです。
 犀川の岸を、そぞろ心に米友が歩むと、行手に朦朧《もうろう》として黒い物影。吾行けば彼も行き、吾|止《とど》まれば彼も止まる。米友は夢
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