通夜《つや》をしなければなりません。
弁信さん。
わたしは浅吉さんの死顔を見なかったように、あの叔母さんの死顔も見ないでしまおうと思います。私にはそれを見るの勇気がありませんもの。皆さんもまた、出世前の者はそういうものを見ない方がよいと申します……」
[#ここで字下げ終わり]
十七
追分から、木曾街道の本道を取らずに、北国街道を行く道庵と米友。
どうしたものか、米友の足が思うように捗《はかど》らない。
軽井沢から沓掛《くつかけ》まで一里五町、沓掛から追分まで一里三町。
そこで善光寺道を小諸《こもろ》へ続く原っぱで、米友がドッカと路傍の草の上に坐り込んでしまいました。
「友様、どうした」
「うーん」
と米友が杖槍から荷物まで、そっくりそこへ抛《ほう》り出し、足を投げ出して、上目遣《うわめづか》いに、道庵の面《かお》を眺めただけで無言。
米友のグロテスクな面に、浅間の雲と同じような憂鬱《ゆううつ》が三筋たなびいている。
道庵はそこで杖を立てて、信濃の山川を顧みていると、
「先生」
暫くあって、米友が重苦しく道庵を呼ぶ。
「何だい」
「人が死んでも、ほんとうに魂というものが残るのか」
「そりゃ、そうだとも」
「で、その魂はどこへ行ってるんだ」
「うむ、そりゃあ……」
道庵はグッと唾《つ》を呑み込んで、
「そりゃあお前、地獄へも行けば、極楽へも行かあな」
「地獄と極楽のほかに、この世へ戻って来ることはねえのか」
「そりゃ、この世へ戻って来ることもある、魂魄《こんぱく》この土《ど》にとどまって、恨みを晴らさないでおくべきか……」
道庵は瓢箪《ひょうたん》をあやなして、変な見得《みえ》をきってみましたが、米友はその追究を緩《ゆる》めないで、
「その魂がこの世へ戻って来ると、どこにいる」
「うむ、そりゃあ……そりゃこの宙《ちゅう》に彷徨《さまよ》っていてな、好きな奴へは乗りうつり、恨みのある奴には取ッつく」
「うん、それで、その魂は、どんな色をしている」
「色――魂の色かい」
「この世にあるものなら、色があるだろう」
「うむ――色もあるにはある、色《しき》は即《すなわ》ち空《くう》、空は即ち色なりといって、魂だって、色が無《ね》えという理窟は無え」
と、道庵が力《りき》みました。
「それで、どんな形をしているんだね、先生、その魂は……」
米友はすかさず突っかける。
「なに、その魂の形かい……およそ形のあるものは潰《くず》れずということなく……」
とかなんとかいってみましたけれど、さすがの道庵シドロモドロで、その足もとの危ないこと、酒のせいばかりではありますまい。
事実、この一本槍は、米友が手練の杖槍よりもその穂先が深い――また、この負担は、米友の肩にかけた振別《ふりわけ》を押ッつけられたよりも、道庵にとっては重い。
さきには、出任せに、一種の霊魂不滅を説いて米友に聞かせたが、それこそ本当の道庵流の出任せで、かりに一時の気休めに過ぎない。道庵自身が果して、霊魂の不滅を信じているかどうかは頗《すこぶ》る怪しいものです。だから、正式にこういって、色は、形はと、ジリジリ突っ込まれてみると、相手がどこまでも真剣なのだから、魂は青い色をして、雨の夜に墓場の上で燃えているなんぞと、ごまかしきれない。
道庵は苦しまぎれに、瓢箪《ひょうたん》をハタハタと叩き出してみたが、瓢箪から駒も出ないし、真理も出て来ない。
幸か不幸か、道庵先生がソクラテスほどの哲人でなかった代りに、相手がギリシャの若殿原《わかとのばら》ほどの弁論家でなかったから、霊魂は調和か、実在か、の微妙なところまでは進まず、
「先生、おいらは、もう一ぺん軽井沢へ帰《けえ》りてえのだ」
米友が悠然《ゆうぜん》として、哲学から、感傷に移りました。
米友のは、難問を吹きかけて道庵を苦しめるが目的ではなく、軽井沢のお玉のことが気になってならない。
ここまで足の運びの重いのも、その一種異様なるきぬぎぬの思いに堪うることができないで、それが魂の問題となって穂に現われたというだけのもの。
この男は、もう一度、軽井沢へ帰って、しみじみとお玉という女と話がしてみたいのだ。お玉の面影《おもかげ》が、どうしてもお君に似ている。そうして、特別に自分にとっては親切であったことが、忘れられない。
魂というものがあって、人に乗りうつるものならば、たしかにお君の魂は、あの女に乗りうつっている。名さえ前名のお玉とあるではないか。
米友は、この二里八町の道を、絶えずそのことばかり思うて、後ろ髪を引かれ引かれてこれまで来ました。途中、幾度も、この杖も、荷物も投げ出して、軽井沢へ駈け戻ろうかと思いつめては、思い返し、思い返し、ここまで来たのだが、ついに堪えられなくなって、ここ
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