に無いじゃありませんか。
弁信さん。
これで今日も学問の時間になりました。炉辺へ行かねばなりません……
ちょっとお待ち下さい。ここで筆を休ませようとしていると、下でなんだか騒々しい人の声が起りましたよ。
おや! あの声は、嘉七さんの声ではないか。
『今、離れ岩んとこで、こねえな女頭巾《おんなずきん》を拾って来たよ、見ておくんなさい、こりゃあ、あの高山の穀屋《こくや》のお内儀《かみ》さんの頭巾じゃあんめえか。縮緬《ちりめん》だよ、安くねえ頭巾だよ……あんなところへ落しておいちゃあ、風で水の中へ吹ッ飛んでしまわあな。穀屋のお内儀さんはおいでなさらねえか、頭巾を拾って参りましたよ』
嘉七さんという人が離れ岩の傍で、女頭巾を拾って来たという。
頭巾はかまいませんが、わたしは、あの離れ岩がいやです。なんだって、お内儀《かみ》さんは、あんなところへ行ったのでしょう。
『高山のお内儀さんは今朝出たまんま、まだ帰らねえよ』
これは、留さんという男の返事。
あのお内儀さんが今朝出たまま帰らない。そうして離れ岩の女頭巾。
弁信さん。
わたしの胸がまた早鐘のように鳴ります。行って確めて来ます。あの叔母さんまでが離れ岩の下の水藻に沈んでしまったのではないか。何だかそう思われてならない」
[#ここで字下げ終わり]

 その翌日のお雪の手紙。
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「弁信さん――
わたしの胸にハッと来たのは無理ではありませんでした。その晩になるまで、あの叔母さんが、とうとう宿へ戻って参りませんでした。その翌朝も。
そこで、また大騒ぎをして探しに出かけたのですが、その心当りの第一は、どこというまでもありますまい、あの離れ岩です。現にそこには、あの叔母さんの物だろうという女頭巾が落ちていたのみならず、この間の、あの藻の花が、物をいわずにはいません。
因縁事《いんねんごと》のように怖ろしいではありませんか。あの叔母さんが、やはり浅吉さんと同じところの水の中に落ちて、絹糸のような水藻に絡《から》まれて死んでいたのです。それも死に方が同じように、一滴の水も飲まずに、死んでいたということです。
わたしは、何か眼に見えない縄が、わたしたちの周囲に犇々《ひしひし》と取巻いて、その縄に触れようものなら、誰でも容赦のない力のあることを感じて、身も世もあらぬ思いをせずにはおられません。
この続けざまな不祥の出来事に、宿にいる人たちの評判は区々《まちまち》です。
浅吉さんと、あの叔母さんとの間を、最初から知っているものは、浅吉さんの死を悲しんで、あの叔母さんがその後を追ったのだということを、言っています。つまり、あれは別々の心中だといってしまう人もあって、後から来た人たちは大抵その意見に従って、あれを離れ離れの心中だと見てしまう者が多いのですが、わたしには決してそうは思われません。あの叔母さんという人が、浅吉さんの後を追って死なねばならぬほど、人情のある人であったかどうか、この手紙をごらんになればおわかりになるはずです。
といって、二人まで続いて同じところで怪我をして、水に溺れて死ぬというようなこともありようはずはありますまい。
どう思い詰めたって、あの叔母さんが、自分で死ぬ気になんぞなるもんですか。
そんならば――わたしは、あれこそ浅吉さんの魂が、あの叔母さんを、同じところへ引き込んで殺したものだとしか思われません。そうでなければ、ほかに解釈のしようがないじゃありませんか――
それからまた、ある人は、その前の日、あの叔母さんが、吉田先生と一緒に、沼の辺《ほとり》を歩いていたのを見たというものがありますが――吉田先生とは机竜之助様のこと――それはなんでもありません。何かであったところで、その日は、叔母さんはちゃんと宿へ帰っていますし、姿の見えなくなったのはその翌日からのことで、その翌日から今日まで、先生はちゃんと三階の柳の間に休んでおられます。尤《もっと》も時折、先生は眼を冷しに外へおいでにはなりますが、いつか知れないように戻っては休んでしまわれたり、また静かに坐って考えておいでになるばかりですから、誰も先生を疑う意味で、そんな噂を始めたのではありません。ただ、その先の日に、あの先生と叔母さんとが、沼の辺《ほとり》を一緒に歩いていたのを見たということだけが、ちょっと人の口の端に上っただけなのです。あの先生はまだ、こんな出来事を御存じはありますまい。わたしもなるべくお知らせをしたくないと思っています。鐙小屋《あぶみごや》の神主さんは、また室堂《むろどう》へ上って行《ぎょう》をしておいでなさるのだから、誰もそのほかに、あの沼の傍へ立入る者は無いはずです。嘉七さんは白樺《しらかば》の皮を取りにあの辺へ通りかかって、そうして頭巾を見つけ出して来たまでです。ああ、また今夜はみんなしてお
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