るというような註文は本気では聞けないが、とにかく、相当なものを描いて置いて、房州へ押渡ろうという気を起しました。

         二十一

 田山白雲はお角のために、何を描いて与えようかと思案しました。
 頼まれた題目の非常識は、もとより問題ではないが、それでも自分の良心が満足するほどのものを描いて与えなければならぬという義務を感じました。この場合、その題目と出来ばえが、頼んだ人の気に入ろうと入るまいと、自分の力で相応と認めるものをさえ描いて残して置けば、主人の帰りを待つまでもなく、例によって白雲悠々の旅へ飛立つには何のさわりもないことだ。
 さて、何を描こう、選択を自由にすれば、かえって題目の取捨に迷う。
 ともかくも、目標は浅草寺境内《せんそうじけいだい》の額面である。従来のものの中へ割込んで遜色《そんしょく》のないもの、それを頭に置いて、題目の選択にとりかかってみたが、それが案外骨が折れます。
 容斎の向うを張って弁慶でも描こうかしら。それも気が進まない。景清《かげきよ》は、あれは上野の清水堂にある。いっそ趣をかえて江戸風俗の美人画でも写してみようか、では浮世絵の店借《たながり》をするようだ。
 そこで、白雲は再三、浅草観音の額面を実地見学に行きましたが、どうもしかるべき題目を発見することができません。
 ある日の夕方、あれかこれかと考えながら立戻って格子戸をあけると、そこに不意に眼を眩惑《げんわく》されるものを見せられました。
 座敷では今、清澄の茂太郎が踊っているところであります。元禄模様の派手な裲襠《うちかけ》を長く畳に引いて、右の手には鈴を持ち、左の手では御幣《ごへい》を高く掲げながら、例の般若《はんにゃ》の面《めん》を冠《かぶ》って座敷の中をしきりに踊っているところでありました。
 それが白雲の帰ったのに気がつくと、大慌《おおあわ》てに慌てて、鈴を火鉢の隅に置くやら、御幣を神棚へ載せようとするやら、ようやく般若の面を取って、
「お帰りなさい」
 長い裲襠の裾《すそ》を引いたままで挨拶しました。
「茂坊」
「はい」
「もう一度、今の姿で踊ってごらん」
「御免なさい、おじさん、一人であんまり詰らなかったもんだから……」
「いいから、お前、もう一遍、今の姿で……その面を冠《かぶ》って、鈴と、御幣を持って、いま踊った通りに、踊ってわしに見せておくれ」
「御免なさい、もうしませんから」
「そうじゃない、お前のいま踊った姿を、ぜひもう一度見たいんだ、それを絵に取って置きたいと思うんだよ、叱るんじゃない、頼むんだよ」
「じゃ、やってみましょうか」
「やってごらん」
 そこで茂太郎は、再び面を冠って、両手に鈴と御幣とを持ち、裲襠《うちかけ》を長く引いて、座敷いっぱいに踊りはじめました。これを座敷へ上った白雲は、立ちながら目もはなさずに眺め入りました。
 この踊りは、一種不思議な踊りであります。仕舞のようなところもあり、かんなぎ[#「かんなぎ」に傍点]のような所作《しょさ》もあり、そうかと思えば神楽拍子《かぐらびょうし》のように崩れてしまうところもあって、なんとも名状のできない踊りだが、それでも、その変化の間に一つのリズムというものがあって、陶然として酔わしむるものがある。
 無論、この不思議な児童の、即興の、出鱈目《でたらめ》の踊り方には違いないが、その出鱈目のうちにリズムがあるから、白雲はかえってそれを、本格の踊りよりも面白いと思いました。
 そうしているうちに、白雲が膝を打って、
「これだ」
と言いました――白雲もまた、最初からこの般若《はんにゃ》の面が凡作ではないと見ていたのですが、この時になってはた[#「はた」に傍点]と思い当りました。
 これこそ与えられた絶好な画題だ。その不思議な踊り全体のリズムが、人を妙に陶酔の境へ持って行くのみならず、仔細に見ると無心な子供が、大人の長い着物を引きずっているところにまた無限の趣味がある。そうして、鈴と、御幣《ごへい》とを、無雑作《むぞうさ》に小さな両の手で振り翳《かざ》したところに、なんともいえないたくまざるの妙味がある。
 もしそれ、その冠《かぶ》った般若の面に至っては、白雲が日頃から問題にしていた名作で、銘こそないがその作物の非凡なる、どこからどうしてこの少年が手に入れたのか。そうして朝から晩まで、食事の時でも膝をはなさないで大切《だいじ》がっているのが訝《おか》しいほどである。白雲は、いつか、その面を取ってつくづくと、作と年代等を研究してみようと思っていたそれでありました。いま見ると、その名作の面影《おもかげ》がつくづくと人に迫るものがある。
 体のすべてが無我無心に出来ているのに、面そのものだけが、呪《のろ》いと、憎悪《ぞうお》とを集めた、稀代の名作になっている。
 
前へ 次へ
全88ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング