石《けんせき》をのせた一軒茶屋がある。そこへ立寄れば過日の接戦の裏、五条源治の茶屋で知らないところを聞くことができたろう。兵馬もまた有力な手がかりを得たかも知れないが、そこは素通りしてしまって、塩尻峠を下り尽すと、塩尻の阿礼《あれ》の社《やしろ》。
 そこで、宇津木兵馬が聞き合せたところによると、どうも竜之助らしい一行が、これから木曾路へは向わないで、五千石の通りを松本方面へ赴いた形跡だけは確かであることを知りました。
 ともかくも松本平。そこが捜索の一つの根原地とならなければならぬ。
 三人は、いざとばかり、塩尻の茶屋を立って、五千石の通りを松本へ向わんとする。
 この宿《しゅく》の外《はず》れまで来ると、路傍の家の戸板に大きな絵看板が出ている。絵看板ではない、絵の辻ビラでしたけれど、大きなのを、けばけばしく掲げてあったところから、絵看板だとばかり思いました。
「ほほう、松本の町へ、海老蔵《えびぞう》が乗込んで来たぞ」
 丸山勇仙が早くもその大きな辻ビラの前に立ちました。見れば真中に大きく、
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「江戸大歌舞伎 市川|海土蔵《えどぞう》」
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と認《したた》めてある。海土《えど》の土がごまかされているのを知らず、丸山も仏頂寺も、等しく、ああ海老蔵が来たなと思いました。
 宇津木兵馬も無論、土[#「土」に傍点]と老[#「老」に傍点]とを見分けるほどに興味を持ってはおりません。
 海老蔵の名は、市川の家にとっては、団十郎よりも重いはずの名であります。
 仏頂寺と、丸山が、従来全く芝居を見ない人間であるか、或いは最もよく芝居を見る人間であるか、どちらかならばよかったが、両人ともに話の種になる程度で海老蔵を見るには見ている。しかし無論、道庵流に皮肉に見ることなどは知らないし、武芸者の大雑把《おおざっぱ》な頭に、海老蔵の名前だけがしみ込んでいるものですから、その絵ビラを見て、
「松本へ海老蔵が来たな、こいつは一番見ずばなるまい」
という気になりました。
 兵馬の、芝居を知らないことは、これらの人々より一層上で、さりとて、宇治山田の米友ほどに、絶対にそんなものが頭に無いというほどではないが、今は、芝居どころの沙汰《さた》ではない。
 ところが、仏頂寺と、丸山は、松本へ着いたら市中へ宿を取らずに、まず浅間の温泉へ行こうという話をしている。それを聞いていると、どこまでも遊山《ゆさん》気取りです。
 いったい、この連中、亡者みたように道中を上下しながら、こうも暢気《のんき》なことがいっていられるのは不思議だ。いったい、路用の財源はどこから出るのだろうと、兵馬はまじめに人の懐ろまで心配してみました。しかし、まあこのくらいに腕が出来、武芸者として面《かお》が売れていれば、到るところに相当の知己があって、多少の路用には事欠かないのだろう――お銀様と別れた後の自分は淋しい。人の気も知らないで、といったような気分にもなりました。
 そうして松本をめざしてゆくと、松本方面から、飄然《ひょうぜん》と旅をして来た浪士|体《てい》の精悍《せいかん》な男が一人、
「やあ、仏頂寺……」
と、いきなり先方から言葉をかけると、
「おや、川上」
と仏頂寺が合わせました。
「何をうろうろしているのだ」
 先方がいう。
「吾々は亡者だから、気の向いたところを行きつ戻りつしている。君は、そうして、ちょこちょこと、どこから来てどこへ急ぐのだ」
「松代《まつしろ》からやって来たが、これから上方《かみがた》へ上るのだ」
「吾々はまた、この同勢で浅間の温泉へ行こうというのだ、君も附合わないか」
「そうしてはおられぬ」
といって、この男はさっさと行き過ぎてしまいました。
「川上の奴、松代へ何しに行ったのだ」
「態々《わざわざ》行ったのじゃあるまい、江戸からの帰りがけだろう」
 こういって、仏頂寺と、丸山とは話しながら、川上と呼ばれた浪士と袂《たもと》を分ちました。
 兵馬は知らない人だが、その川上と呼ばれた男、見たところ柔和なうちに精悍な面魂《つらだましい》と、油断のない歩きぶりと、殺気を帯びた歯切れのよい挨拶ぶりを聞いて、なんだか一種異様な印象を与えられました。
「あれは肥後の川上|彦斎《げんさい》といって、穏かでない男だ」
と仏頂寺が簡単に説明してくれたので、兵馬が初めてその名を知ることができました。
 仏頂寺の註釈通り、肥後の川上彦斎は甚だ穏かでない男であります。佐久間象山を殺したのも、実はこの男でありました。象山を殺しておいて、なにくわぬ面《かお》で象山の家へ行って、平気で寝泊りをしていたのもこの男であります。剣術はさのみ優れたりとは見えないが、人を斬ることには凄い腕を持った男の一人であります。
 或る時、或る席で数名の者が、ところの代
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