いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の方を見廻すと、縦隊を作った真黒な一団の人が、こっちへ向いて上って来る。それを見下ろし加減に眺めつつ下る三人の者。
「おや、あれは何だろう」
 馬もなければ、駕籠もない。槍も、先箱もない。ただ真黒な縦隊に、笠だけが茸《きのこ》の簇生《ぞくせい》したように続いている。
「なるほど」
 三人が何とも判定し兼ねて行くと、先方も近づいて来る。道もほとんど平らになる。そこで見当がついてみると、何の事だ、これは旅の行商の一隊であった。笠に脚絆《きゃはん》、甲掛《こうがけ》、背に荷物、かいがいしい装い。しかも、それが男ではなくすべて女。数は都合二十名ほど。
 やがて、こちらの三人と、その女行商人とは細い道でこんがら[#「こんがら」に傍点]かる。
 これは、白根山の麓《ふもと》あたりに住む「山の娘」の一行でありました。
 今しも松本平方面へ行商に出かけて、故郷へ帰るのか、そうでなければ伊奈方面へ足を入れる途中と見える。
 その以前、机竜之助は駿河から甲州路への徳間峠《とくまとうげ》で、計《はか》らずもこの山の娘たちに救われたことがある。仏頂寺と、丸山は、この山の娘たちの縦列とこんがらかって、やがていのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原へすり抜けました。すり抜けた時に仏頂寺弥助が、
「どうかすると、あんなのの中に素敵《すてき》なのがいる」
といいますと、丸山勇仙が、
「年増《としま》で一人、娘で二人ばかりたまらないのがいたよ」
「おや、宇津木がいない」
と見れば、宇津木兵馬がいない。山の娘の縦列に呑まれてしまったのか、三人打連れて来たうちの一人がいない。忘れ物でもしたように振返ると、宇津木兵馬は、ずっと後《おく》れて路の傍《はた》に、行商の女の一人としきりに話し合っているのを認めましたから、
「おや」
 仏頂寺と、丸山が、狐にでも憑《つま》まれたように感じました。
「何を話しているのだろう」
 暫く待っていたが、その話が存外手間が取れるので、
「すっかり話が持ててるぜ」
「様子が訝《おか》しい」
と言いました。少し嫉《や》けるような口ぶりでもあります。
「おやおや、女共がみんな野原へ荷物を卸《おろ》して休みだした、それだのに宇津木とあの女ばかりは、立ち話に夢中だ」
「何か宇津木の奴、頻《しき》りに手真似《てまね》をして女を宥《なだ》めている」
「女《あま》めは泣いてるじゃないか、涙を拭いている様子だ」
 実際、離れて見ると、意外な光景には違いありません。
 行商の一隊が、まるくなって取巻いて休んでいる中に、宇津木と、その山の娘のうちの一人とが、しきりに懐かしそうな立ち話をつづけている。
 仏頂寺と、丸山とは、それをぼんやりと、いつまでも見ていなければならない有様となっている。調子が少し変ってきました。
 山の娘たちは密集を得意とする。里に出る時は散逸しても、険山難路を過ぐる時は必ず集合する。事急なる時は必ず密集する。密集すれば、獅子も針鼠を食うことができない。ナポレオンも、アレキサンダーも、密集の利益を認めていた。二十余人の女が密集すれぼ、いかなる兇漢も、ちょっと手がくだせまい。
 そこで密集は力である。どうかすると山の娘たちは、この密集の中に窮鳥を包容することがある。いかにもこの密集の中へ包んで、白根の山ふところへもちこんでしまえば、捜索の人を、永久に隠匿《いんとく》することができる。天保の大塩の余党のうちにも、これらの手によって、山の奥へ隠され、再び世に出でない安楽の生涯を終ったものがあるという。江川太郎左衛門ほどの英物が竹売りに化けて、斎藤弥九郎を引連れ、甲州へ隠密《おんみつ》に入り込んだのもそのためであったが、ついに得るところなくして終った。
 女は弱いことになっているが、それでも団結はやはり力である。山の娘たちは団結的に訓練されている。
 仏頂寺と丸山は兵馬を後にして、忌々《いまいま》しそうに歩き出し、
「ここだ!」
 二人、足を止《とど》めたのは、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原のちょうど真中ごろ。
 あの時の不思議な立合。二人の眼の前に、過ぎにし剣刃上の戯れがまき起る。
 この時分、宇津木兵馬はようやく、女との立ち話が済んで、二人の跡を追うて来るのを認めます。仏頂寺弥助は、その当時、机竜之助が立ったところに立って、兵馬の来るのを待っている。
 山の娘たちは草原の上に休んだままで、申し合わせたように、こちらを眺めている。
 兵馬が急いで、二人の跡を追いかけて、ここへやって来た時、以前、竜之助が立っていたところに立っていた仏頂寺が、
「宇津木、問題の場所はここだ、ここにそれ、こうして……」
 兵馬を、麾《さしまね》いた仏頂寺弥助の気色《きしょく》なんとなく穏かならず、どういう料簡《りょうけん》か、近づく兵馬を
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