う壺であった。手もなくその策略にひっかかった松浦の気は苛立《いらだ》ち、太刀先《たちさき》は乱れる。その虚に乗じた吉本は、十二分の腕を振《ふる》って、見事なお胴を一本。
「これでも九州第一か」
 そこで斎藤歓之助の復讐を、吉本豊次が遂げた。その吉本の如きも、自分の眼中にないようなことを仏頂寺がいう。以上の者の仇を、以下の者がうったのだから、それだから勝負というものはわからない。非常な天才でない限り、そう格段の相違というものがあるべきはずはない。ある程度までは誰でも行けるが、ある程度以上になると、容易に進むものではない。
 現代の人がよく、桃井、千葉、斎藤の三道場の品評《しなさだめ》をしたがるが、それとても、素人《しろうと》が格段をつけたがるほど、優劣があるべきはずはないという。
 自然、話が幕府の直轄の講武所方面の武術家に及ぶ。以上の三道場は盛んなりといえども私学である。講武所はなんといっても官学である。そこの師範はまた気位の違ったところがある。男谷下総守《おだにしもうさのかみ》をはじめ、戸田八郎左衛門だの、伊庭《いば》軍兵衛だの、近藤弥之助だの、榊原健吉だの、小野(山岡)鉄太郎だのというものの品評に及ぶ。それから古人の評判にまで進む。
 人物は感心し難いが、そういう批評を聞いていると、実際家だけに、耳を傾くべきところが少なくはない。兵馬は少なくともそれに教えられるところがある。
 かくて、三日目に例の信濃の下諏訪に到着。
 以前、問題を引起した孫次郎の宿へは泊らず、亀屋というのへ三人が草鞋《わらじ》をぬぐ。
 その晩、仏頂寺と丸山は兵馬を残して、どこかへ行ってしまいました。多分、過日の塩尻峠で負傷した朋輩《ほうばい》を、この地のいずれへか預けて療養を加えさせているのを、見舞に廻ったのだろう。
 宿にひとり残された兵馬は昂奮する。
 明日はいよいよ塩尻峠にかかるのだ。仏頂寺らのいうところをどこまで信じてよいかわからないが、果してその人が机竜之助であるかどうか、確証を得たわけではないが、しかし疑うべからざるものはたしかに有って存するようだ。
 塩尻へかかって、その証跡をつきとめた上に、行先を尋ぬれば当らずといえども遠からず。どうも大事が眼の前に迫ったように思う。
 ところが、いくら待っても、仏頂寺と丸山とが帰って来ない。
 待ちあぐんだ兵馬は、お先へ御免を蒙《こうむ》って寝てしまいました。
 心には昂奮を抱いても旅の疲れで、グッスリと眠る――明け方、眼を醒《さ》まして見ると、二人の寝床は敷かれたままになっている。仏頂寺も、丸山も、昨夜のうちに帰って来た様子がない。
 いったん戻って、また出直したとも思われない。兵馬は気が気でない。
 肝腎の案内者、次第によっては助太刀をも兼ねてやろうという剛の者が、戦いを前にして逃げ出したわけでもあるまいに、他《ひと》の大事とはいいながら、あまりといえば暢気千万《のんきせんばん》だ。
 兵馬は起きて、面《かお》を洗って、用意を整えて待っているが、仏頂寺と、丸山は、容易に帰って来ない。もう外では、人の足の音、馬の鈴の音が聞える――膳を運ばれたのを、そのままにして箸を取らないで、二人の帰るのを待っているが、二人は帰らない。日が高くなる。
 宿のものにいいつけて捜させると、その二人は瓢箪屋《ひょうたんや》という茶屋で女を揚げて、昨晩、さんざんに飲み、酔い倒れてまだ枕が上らないとの報告。兵馬は聞いて苦笑いをしました。
 二人の飲代《のみしろ》は、お銀様から預かった、財布からの支出に相違ない――兵馬はそんなことは知らないが、あまりの暢気千万に呆《あき》れて、よし、それでは拙者が出向いて起して来るといって、旅装を整えて、この宿から茶屋へ向いました。
 兵馬はその茶屋というのへ行ってみたが、たしかにお二人はおいでになっているが、未だお眼醒《めざ》めになりませんという。
 それでは、自分が直接《じか》に起して来るといって、茶屋の者が驚くのをかまわず、兵馬は二階へ上って、二人の寝間へ踏み込んで見ると、二人は怪しげな女と寝ている。
 あまりの醜態に呆れ返った兵馬は、
「おのおの方は、まだお休みか、拙者は一足お先に御免蒙る」
といい放って、さっさと出てしまいました。
 そうして兵馬は二人を置去りにして、一人で下諏訪を発足するとまもなく例の塩尻峠。峠を上りきって五条源治の茶屋で一休みしました。
「この間、この辺の原で斬合いがあったという話だが、本当か」
と訊ねてみますと番頭が、
「ええ、ありました、えらい騒ぎで……」
 そこで、先達《せんだっ》ての、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の斬合いの話が始まる。
 いずれも、自分が立会って篤《とく》と見定めたような話しぶり。実は斬合いという声を聞くと、戸を閉じて顫《ふる》えてい
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