仏頂寺のつむじ[#「つむじ」に傍点]が少々曲りかけて、
「それは歓之助が強かったのではない、また長州の壮士たちが弱かったというのでもない、術と、力との相違だ、手練と、血気との相違だ、いわば玄人《くろうと》と、素人《しろうと》との相違だから、勝ってもさのみ誉れではない――その鬼歓殿も九州ではすっかり味噌をつけたよ」
という。人が賞《ほ》めると、何かケチをつけたがるのが、この男の癖と見える、特に悪意があるというわけではあるまい。ただ、白いといえば、一応は黒いといってみたいのだろう。それでも兵馬は気になると見えて、
「歓之助殿が九州で、何をやり損ないましたか」
「さればだよ、九州第一といわれている久留米の松浦波四郎のために、脆《もろ》くも打ち込まれた」
「え」
兵馬はそのことを奇なりとしました。練兵館の鬼歓ともいわれる者が、九州地方で脆くも後《おく》れを取ったとは聞捨てにならない。
斎藤歓之助は、江戸においての第一流の名ある剣客であった。それが九州まで行って、脆くも後れを取ったということは、剣道に志のあるものにとっては、聞捨てのならぬ出来事である。
兵馬に問われて仏頂寺が、その勝負の顛末《てんまつ》を次の如く語りました。
久留米、柳川は九州においても特に武芸に名誉の藩である。そのうち、久留米藩の松浦波四郎は、九州第一との評がある。九州に乗込んだ斎藤の鬼歓は、江戸第一の評判に迎えられて、この松浦に試合を申し込む。そこで江戸第一と、九州第一との勝負がはじまる。
これは末代までの見物《みもの》だ。その評判は、単に久留米の城下を騒がすだけではない。
歓之助は竹刀《しない》を上段に構えた。気宇は、たしかに松浦を呑んでいたのであろう。それに対して松浦は正眼に構える。
ここに、満堂の勇士が声を呑んで、手に汗を握る。と見るや、歓之助の竹刀は電光の如く、松浦の頭上をめがけて打ち下ろされる。波四郎、体を反《そ》らして、それを防ぐところを、歓之助は、すかさず烈しい体当りをくれた――突きは歓之助の得意中の得意だが、この体当りもまた以て彼の得意の業《わざ》である――さすがの松浦もそれに堪えられず、よろよろとよろめくところを、第二の太刀先《たちさき》。あわや松浦の運命終れりと見えたる時、彼も九州第一の名を取った剛の者、よろよろとよろけせか[#「せか」に傍点]れながら、横薙《よこな》ぎに払った竹刀が、鬼歓の胴を一本!
「命はこっちに!」
と勝名乗りをあげた見事な働き。これは敵も、味方も、文句のつけようがないほど鮮かなものであった。
江戸第一が、明らかに九州第一に敗れた。無念残念も後の祭り。
無論、この勝負、術の相違よりは、最初から歓之助は敵を呑んでかかった罪があり、松浦は、謹慎にそれを受けた功があるかも知れないが、勝負においては、それが申しわけにはならない。
仏頂寺は兵馬に向って、この勝負を見ても、歓之助の術に、まだ若いところがあるという暗示を与え、丸山が激賞した逆上《のぼせ》を引下げるつもりらしい。
「惜しいことをしましたね」
と兵馬は歓之助のために、その勝負を惜しがると、仏頂寺は、
「全く歓殿のために惜しいのみならず、そのままでは、斎藤の練兵館の名にもかかわる。そこで雪辱のために、吉本が出かけて行って、見事に仇を取るには取ったからいいようなものの」
と言いました。
「ははあ、どなたが、雪辱においでになったのですか、そうしてその勝負はどうでした、お聞かせ下さい」
「吉本が行って、松浦を打ち込んで来たから、まあ怪我も大きくならずに済んだ」
といって仏頂寺は、斎藤歓之助のために、九州へ雪辱戦に赴いた同門の吉本豊次と、松浦との試合について、次の如く語りました。
無論、吉本は歓之助の後進であり、術においても比較にはならない。しかし、この男はなかなか駈引がうまい。胆があって、機略を弄《ろう》することが上手だから、変化のある試合を見せる。歓之助すらもてあました相手をこなし[#「こなし」に傍点]に、わざわざ九州へ出かけて、松浦に試合を申しこみ、さて竹刀を取って道場に立合うや否や、わざと松浦の拳をめがけて打ち込み、
「お籠手《こて》一本!」
と叫んで竹刀を引く。
「お籠手ではない、拳だ」
松浦は笑いながら、その名乗りを取合わない。無論、取合わないのが本当で、戯《たわむ》れにひとしい振舞で、一本の数に入るべきものではない。
ところが、吉本豊次はまた何と思ってか、取合わないのを知らぬ面《かお》で、竹刀《しない》をかついで道場の隅々をグルグル廻っているその有様が滑稽なので、松浦が、
「何をしている」
と訊《たず》ねると、吉本は抜からぬ顔で、
「ただいま打ち落した貴殿の拳を尋ねている」
この一言に、松浦の怒りが心頭より発した。
松浦の怒ったのは、吉本の思
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