でございました、今日のお試合は」
新太郎、嫣乎《にっこり》と笑うて曰く、
「なるほど、明倫館は立派な建物じゃ、他藩にもちょっと類のないほど宏壮な建物で、竹刀《しない》を持つものもたくさんに見えたが、本当の剣術をやる者は一人もない、いわば黄金の鳥籠に雀を飼っておくようなものだ」
これは、新太郎として、実際、そうも見えたのだろうし、また必ずしも軽蔑の意味ではなく、調子に乗って言ったのだろう。だが、この一言が、忽《たちま》ち宿の主人の口から、剣士たちの耳に入ったから堪らない。
「憎い修行者の広言、このまま捨て置いては、長藩の名折れになる」
かれらは大激昂で新太郎の旅宿を襲撃しようとする。老臣たちが、それを宥《なだ》めるけれど聞き入れない。止むを得ず、急を新太郎に告げて、この場を立去らしめた。新太郎は、それに従って、一行を率いて、その夜のうちに九州へ向けて出立してしまったから、わずかに事なきを得たが、あとに残った長州の血気の青年が納まらない。
「よし、その儀ならば、九州まで彼等の跡を追っかけろ」
「彼等の跡を追いかけるよりも、むしろ江戸へ押し上って、その本拠をつけ。九段の道場には、彼の親爺《おやじ》の弥九郎も、その高弟共もいるだろう、その本拠へ乗込んで、道場を叩き潰《つぶ》してしまえ」
長州の青年剣士ら十余人、猛然として一団を成して、そのまま江戸へ向けて馳《は》せ上る。その団長株に貴島又兵衛があり、祖式松助がある。
そこで、彼等は一気に江戸まで押し通すや否や、竹刀と道具を釣台に舁《かき》のせて、麹町九段坂上三番町、神道無念流の師範斎藤篤信斎弥九郎の道場、練兵館へ押寄せて、殺気満々として試合を申し込んだものだ……
誰も知っている通り、当時、江戸の町には三大剣客の道場があった。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作、高橋|蜊河岸《あさりがし》の鏡心明智流の桃井春蔵《もものいしゅんぞう》、それと並んで、練兵館の斎藤弥九郎。おのおの門弟三千と称せられて、一度《ひとたび》その門を潜らぬものは、剣を談ずるの資格がない。
殺気満々たる長州の壮士連十余人の一団は、斎藤の道場を微塵《みじん》に叩き潰《つぶ》す覚悟をきめてやって来たのだから、その権幕は、尋常の他流試合や、入門の希望者とは違う。
ところで、これを引受けた斎藤の道場には、長男の新太郎がいない。やむなく、次男の歓之助が出でて応《あしら》わねばならぬ。
歓之助、時に十七歳――彼等壮士の結構を知るや知らずや、従容《しょうよう》として十余人を一手に引受けてしまった。
もとより、修行のつもりではなく、復讐《ふくしゅう》の意気でやって来た壮士連。立合うつもりでなく殺すつもり。業《わざ》でいかなければ、力任せでやっつけるつもりで来たのだから、その猛気、怒気、当るべからざる勢い。歓之助、それを見て取ると、十余人を引受け、引受け、ただ単に突きの一手――得意中の得意なる突きの一手のほか、余手を使わず、次から次と息をつかせずに突き伏せてしまった。
哀れむべし、長州遠征の壮士。復讐の目的全く破れて、十余人の壮士、一人の少年のために枕を並べて討死。宿へ引取ってから咽喉《のど》が腫《は》れて、数日間食物が入らず、病の床に寝込んだものさえある。
長人の意気愛すべしといえども、術は格別である。中央にあって覇を成すものと、地方にあって勇気に逸《はや》るものとの間に、その位の格段がなければ、道場の権威が立つまい。
しかし、貴島又兵衛あたりは、このことを右の話通りには、本藩へ報告していないようだ。
貴島は、長藩のために、のよき剣術の師範物色のため、江戸へ下り、つらつら当時の三大剣客の門風を見るところ、斎藤は技術に於ては千葉、桃井には及ばないが、門弟を養成する気風がよろしい――というような理由から、国元へ斎藤を推薦したということになっている。
ところで、これはまた問題だ。右の三大剣客の技術に、甲乙を付することは、なかなか大胆な仕事である。貴島又兵衛が、斎藤弥九郎の剣術を以て、桃井、千葉に劣ると断定したのは、何の根拠に出でたのか。この三巨頭は、一度《ひとたび》も実地に立合をした例《ためし》がないはず。
千葉周作の次男栄次郎を小天狗と称して、出藍《しゅつらん》の誉れがある。これと斎藤の次男歓之助とを取組ましたら、絶好の見物《みもの》だろうとの評判は、玄人筋《くろうとすじ》を賑わしていたが、それさえ事実には現われなかった。もし、また、事実に現わして優劣が問題になった日には、それこそ、両道場の間に血の雨が降る。故に、それらの技術に至っては、おのおの見るところによって推定はできたろうが、断定はできなかったはず。
丸山勇仙は当時、長州壮士が練兵館襲撃の現場に居合せて、実地目撃したと見えて、歓之助の強味を賞揚すると、
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