うに、耳が聞えないんですか」
狂女はわが身の不幸を忘れて、この少年の不具に同情しました。少なくとも、その同情の余裕の存することを駒井は感心し、
「この子は支那の生れで、名をキンツイといいます」
「キンツイさんですか、妙な名ですね」
「非常にまじめな少年ですから、あなた、よくお附合いなさい」
「本当ですか……まじめな人って、なかなか当てにはなりませんけれど、まだ若いから大丈夫でしょう」
「大丈夫です。それに神様を信心していますから」
「まあ、神様を信心しておいでなんですか、支那にも神様がありますのですか」
「ありますとも、人間は有っても無くっても、神様の無いというところはないと、私もこの少年から教えられました」
「まあ感心ですわね、子供のうちから神様を信心するなんて。わたしも神信心をしたいにはしたいんですけれど、どこに神様がおいでなさるか、わからないんですもの」
といって、自分も一時、神信心をしてみたけれども、天神様を拝めば天神様があちらを向き、不動様を信じようとすれば不動様があちらを向くので、とうとう信心をやめてしまったというようなことをいい出すのは困るが、このほかのことは、問いに応じてほぼ的を誤まらないように答えるものですから、駒井は、この女の病気は癒《なお》るかも知れない、とさえ思いました。
名前を問えば、もゆる[#「もゆる」に傍点]と答えました。駒井が念を押すと、
「もゆる[#「もゆる」に傍点]とは、草木のもゆる[#「もゆる」に傍点]という意味でつけたんでしょう、わたしにはよくわかりませんけれど」
と答える。姓は岡本といわずに、里見と呼んでもらいたいということ。
保田から昨晩、夜通しここまで歩いて来たが、一人で夜道をしても少しも怖いとは思わないということ。山でも、坂でも、さして疲れを覚えないで歩き通すということ。途中、人にであっても、こちらより先方が怖がってよけて通すということ。
それでもよわみを見られてしまってはもう駄目だということ。
打明けた話を聞かされていると、駒井は不愍《ふびん》の思いに堪えられなくなりました。なるほど、これをこのまま突き出してしまえば、残れるところのすべてのものを、泥土《でいど》に委《まか》してしまうのだ。本来、よい育ちでもあり、また生来、悪い質《たち》の娘ではない――そのうち、尋ねる人が来たならば、よく話をしてやろう。来なければしかるべき保証を以て、送り届けてやらねばならぬと考えました。
しかし、差当っての問題は、今夜の問題で、この娘をどの室へ泊めるかということです。金椎と同室に置いて、もし夜中に脱走でもされた日には困る。一人ではいよいよ寝かされない。そうかといって自分の部屋へ寝かすことは、自分が困る……駒井は、ひそかにこの問題に苦心しているのを、娘は自分でズンズンと解決してしまいました。なぜならば、食事が終ると、やはり我物顔で、以前の室の寝台の上に身をのせてしまったからです。
ぜひなく駒井はその室へ錠を卸し、自分は金椎と共に、別の室で寝ることにしました。
十一
宇津木兵馬と、仏頂寺弥助と、丸山勇仙の三人は、八ヶ岳と甲斐駒の間を、西に向って急いでいる。
途中、武術の話。
仏頂寺は、世間を渡り歩いて、兵馬の知らない話をよく知っている。
この人は前にいう通り、斎藤弥九郎の門下で有数の使い手。今こそ亡者の数には入っているが、その武芸談には、なかなかに聞くべきものがある。
しかし、ややもすれば芸に慢じて、己《おの》が師をさえ侮るの語気を漏らすことがある。それが聞く人を不快にする。
丸山勇仙は九段の斎藤の道場、練兵館の話をする。斎藤と、長州系との関係を語る。そのうち、長州の壮士が相率いて練兵館を襲い、弥九郎の二男、当時|鬼歓《おにかん》といわれた歓之助のために撃退された一条を物語る。その仔細はこうである。
はじめ――嘉永の二年ごろ、斎藤弥九郎の長男新太郎が、武者修行の途次、長州萩の城下に着いた。宿の主人が挨拶に来た時に、新太郎問うて曰《いわ》く、
「拙者は武者修行の者であるが、当地にも剣術者はあるか」
主人の答えて曰く、
「ある段ではございませぬ、当地は名だたる武芸の盛んな地でございまして、近頃はまた明倫館という大層な道場まで出来まして、優れた使い手のお方が、雲の如く群がっておりまする。あれお聞きあそばせ、あの竹刀《しない》の音が、あれが明倫館の剣術稽古の響きでございます」
新太郎、それを聞いて喜び、
「それは何より楽しみじゃ、明日はひとつ推参して、試合を願うことに致そう」
そこで、その夜は眠りについて、翌日、明倫館に出頭して、藩の多くの剣士たちと試合を試みて、また宿へ戻って、風呂を浴びて、一酌を試みているところへ、宿の主人がやって来る。
「いかが
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