。ある時は長くなり、ある時は短くなるのも、今にはじまったことではないが、気の短い一方の米友が、こうして別段にじれ出そうともしないのは、遥かに東を望んで、泣いているからです。
「あッ」
 暫くあって気がつきました。鴉《からす》が鳴いて西へ急ぐからです。
 そこで、米友は玉垣へ立てかけて置いた杖槍を取るが早いか、転ぶが如くに権現前の石段を、一息に走《は》せ下りました。
「こんにちは」
 権現の前の石段を一息に走せ下ったところは、碓氷《うすい》の貞光《さだみつ》の力餅です。
「先生はどうしたい、先生は――」
 そのまるい眼をクルクルとして、力餅屋へ乱入しましたけれど、餅屋では相手にしません。
「先生……おいらの先生……」
 次に米友は、その隣りの茶店へ乱入しましたけれど、茶店でも取合いませんでした。
「ちぇッ」
 米友は舌打鳴らして地団駄《じだんだ》を踏みました。どうも見廻したところ、この近辺にわが尋ねる先生の気配がない。
 茶店の隣りが荒物屋――その隣りが酒屋だ。この辺で、鼾《いびき》の声がするだろう……てっきり――とのぞいて見ても、道中の雲助共が、ハダ[#「ハダ」に傍点]かっているだけで先生の姿が見えない。
「ちぇッ、世話の焼けた先生だなあ」
 米友が再び地団駄を踏みました。人家すべて二十を数える碓氷峠の上《かみ》の宮《みや》の前の町、一点に立てば全宿を見通すことも、全宿の通行人をいちいち検分することもできる。さりとて、わが先生の大蛇《おろち》の鼾が聞えない。
 一旦、宿並《しゅくなら》びの店という店を、いちいち探し廻った揚句《あげく》、また再び宮の前へ戻って、坂本方面を見通してみたが、そこにも先生の気配がありません。
「ちぇッ、ほんとうに世話の焼けた先生だなあ」
 米友は宮の前の石段の下に立って、三たび地団駄を踏みました。
 ほんとうに世話の焼けた先生である――生命《いのち》にこそ別条はあるまいけれども、責任観念の強い米友は、もしやと井戸の中まで覗《のぞ》いて見た上に、峠の宿を裏返し、表返しに覗いて歩きました。
 こうして血眼《ちまなこ》になって、東西南北を駈け廻《めぐ》っている米友の姿を、広くもあらぬ峠の町の人々が、認めないわけにはゆきません。
「お兄さん、エ、コリャどうなさりました。迷《ま》い子《ご》に……エ、迷い子はお前のお連れさんでござりますか、年はお幾つぐ
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