は、剣道の極意に渉《わた》らなければやれませんなあ」
といってもて囃《はや》す。
仏頂寺弥助は、いよいよお冠《かんむり》を曲げて、
「ばかばかしくって、見ちゃあいられない」
連れがなければ立って帰るのだが、そうもゆかないらしい。丸山勇仙がまたそれをなだめて、
「まあ、芝居だから我慢するさ、その代り、今度はいよいよ市川宗家の勧進帳だ……これから渋いところを見せるのだから、ぜひ、まあ、もう一幕|辛抱《しんぼう》し給え」
といって引留める。自分たちが主人側で誘って見に来た芝居だから、仏頂寺も無下《むげ》に立帰るわけにもゆかないでいる。それに同行の二人の壮士は、ただもう御多分に漏れず嬉しがって見物しているのだから、それに対しても――
ともかく、右の三幕で岩見重太郎劇が終えて、これから宗家十八番の勧進帳が現われようとするところ。
仏頂寺弥助は不承不承に、また番付を取り上げて、役割のところなどを眺めていたが突然、
「丸山」
と呼びました。
「何だ」
「この番付を見ろ、ここに市川海老蔵と書いてあるこの文字の、海老《えび》の老《び》という文字が違っている」
ああ、ようやくそこに気がつき出した。
「どれどれ」
丸山勇仙が、その番付を取って、
「なるほど……」
「どうだ、これは老《び》という字にはなるまい」
「そうさなあ……」
「土[#「土」に傍点]という字だろう、土という字へ点をつけたり、ひっかけ[#「ひっかけ」に傍点]をつけたりして、ごまかしているのではないか」
「なるほど、そう言えば、そうも取れる。一見すれば老《ろう》と読みたいところだが、そう言われて見ると、土という字だ」
「芝居の法則では、老という字を土と書くのか?」
「そんなはずはあるまい、一点一画は時の宜《よろ》しきに従うとしても、本来、老という字は老であり、土という字は土でなければならん」
「してみれば、これはエビ蔵ではない、エド蔵だ」
「はてな……」
丸山勇仙が、そこで気を入れて、首をかしげました。
「丸山、こりゃ偽物《にせもの》だぞ」
「左様……」
「偽物に違いない」
「そう言われてみるとなあ」
「言われなくても、最初から、わかっていそうなものじゃないか、市川宗家の海老蔵ともあるべき身が、あんな無茶な芝居を打つと思うか」
「でも、地方に出ては、見物を見い見い、調子を下げるのかも知れない」
「以ての外……
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