済みませんけれど、ほんとうに歯痒《はがゆ》いほど気の弱い人です。お内儀さんは、浅吉さんを、こんな山の中へ連れて来て嬲殺《なぶりごろ》しにしているのです。そうしてその苦しがって死ぬのを、面白がって眺めているのだとしか思われないことがあって、私は悚然《ぞっ》とします。それでも、付合ってみると、お内儀《かみ》さんという人も、べつだん悪い人だとは思われず――浅吉さんもかわいそうにはかわいそうだが、お内儀さんも憎いという気にはなれず、わたしは、知らず識らずそのどちらへも同情を持ってしまうのです。一方がかわいそうなら、一方を憎まねばならないはずなのに――それとも、二人とも、別に悪いというほどの人ではないのでしょうか。また、わたしの頭が、こんがらかって、善悪の差別がつかないのでしょうか。
わからないのは、そればかりじゃありません。浅吉さんは、あれほど、お内儀さんから虐待を受けながら、お内儀さんを思い切れないんですね。無茶苦茶に苛《いじ》められて、生命《いのち》を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取られることが、かえってあの人には本望なのか知らと思われることもありますのです。ですから、わたしには、うっかり口は出せません。夫婦喧嘩の仲裁は後で恨まれると聞きましたが、あの人たちは夫婦ではありませんけれども、悪い時は死ぬの、生きるのと、よい時はばかによくなってしまうのですから、わたしは、障《さわ》らないでいるのが無事だと思っています。
ですけれども、そうしているのは、わたしが、あのお内儀さんに加勢して、浅吉さんを見殺しにしているかのように思われてならないこともあります。
弁信さん。
こんなことを、あなたに書いて上げるんじゃありませんけれど、あなたが、わたしのために言って下すったことが、わたしの身の上でなくて、あの浅吉さんという人の身の上にかかっているような気持がしてならないものですから、つい、こんなことを書く気になってしまいました。
前に申し上げる通り、わたしは道中も無事、ここへ来てもほんとに幸福の感じこそ致せ、殺すとか、死ぬとか、そんないやなことは、わたしの身の廻りには寄りつきそうもありませんのに、あの浅吉さんという人には、最初から、それがついて廻っているようです。かわいそうでなりませんけれど、いま申し上げたようなわけで、力になって上げる術《すべ》がありませんのよ
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