今日も、朝からお天気がいいものですから、わたしは一人で、小梨平を通り、低い笹原を分けて無名沼《ななしぬま》へ遊びに参りました。
その途中、硫黄ヶ岳の煙と、乗鞍ヶ岳の雪とが、わたしの足を留めました。
火を噴《ふ》く山から天に舞い上る大蛇《おろち》のような煙。高い山の雪の日に輝く銀の塔を磨いたような色。浅緑の深い色の空気。それから密林の間を下って無名沼のほとりに来て見ますと、いつも見る水の色が、今日はまたなんという鮮《あざや》かでしたろう。
どうして、こんなに無名の沼が、わたしを引きつけるのでしょう。わたしは天気さえよければ、毎日この沼を訪れないという日はありません。それは、やがて雪が谷を埋め尽す時分になっては、一寸《ちょっと》も戸の外へ出ることができないから、今のうちに外の空気を吸えるだけ吸い、歩けるだけの距離を歩いておくという自然の勢いが、わたしをこうして軽快に外へ出して遊ばせるのかも知れません。
それにしても、無名沼《ななしぬま》は、わたしを引きつける力があり過ぎます。
わたしは踊るような足取りで、沼のほとりを廻って、離れ岩のところまで参りました。
前にも申し上げた通り、今日の沼の色の鮮かさは格別に見えました。
ごらんなさい、水底には一面に絹糸を靡《なび》かしたような藻草《もぐさ》が生えているではありませんか。その細い柔らかな藻草の上に、星のような形をした真白な小さい花が咲いて、その花だけが、しおらしい色をして、水の上に浮び出しているではありませんか。
どこからともなく動いて来る水。多分、この、わたしが立っている離れ岩の下から、湧いて流れ出して来るのかも知れません。それが、じっと見ていなければわからないほどの動きで、その白い米粒のような藻の花を動かしているのです。見ていると、どうしても、その花が可愛い唇を動かして、わたしに話しかけているとしか思われないので、わたしも、つい、
『お前は何ていう花』
と訊《たず》ねてみましたが、その時、わたしは、ほとんど人心地を失うほどに驚いてしまいました。その白い藻の花の中に絡《から》まって、人間の屍骸《しがい》が一つ、仰向けに沈んでいるのです。なんという怖ろしいこと。
『ああ、人が殺されて、この水の底に沈んでいる、誰か来て下さい』
と声を限りに叫ぼうとしましたが、その瞬間に気がついて見ますと、何のことでしょう、それは屍骸でも、
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