、京都の騒動、聞いてもくんねえ、長州事件の咽喉元《のどもと》過ぐれば、熱さを忘れる譬《たと》えに違《たが》わぬ、天下の旗本、今の時節を何と思うぞ、一同こぞって愁訴《しゅうそ》をやらかせ、二百年来寝ながら食ったる御恩を報ずる時節はここだぞ、万石以上の四十八|館《たて》、槍先揃えて中国征伐一手に引受け、奮発しなさい、チャカポコ、チャカポコ
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 それに負けず、一方にはまた、
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菊は咲く咲く、葵《あおい》は枯れる
西じゃ轡《くつわ》の音がする
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と唄い、囃《はや》し、おどり狂っているものもある。その千態万状、たしかに珍しい見物《みもの》ではある。七兵衛も呆《あき》れながら飽かず眺めておりました。

         十五

「弁信さん――」
 信州白骨の温泉で、お雪は机に向って、弁信へ宛てての手紙を書いている。
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「弁信さん――
お変りはありませんか。わたし、このごろ絶えずあなたのことを思い出していますのよ。誰よりも、あなたのことを。
どうかすると、不意に、枕元で、あなたの声がするものですから、眼を醒《さ》まして見ますと、それは、わたしの空耳《そらみみ》でした。
どうして、わたし、こんなに、あなたのことばかり気になるのかわかりませんわ。
ほかに思い出さねばならぬ人もたくさんありましょうに、弁信さんの面影《おもかげ》ばかりがわたしの眼の前にちらついて、弁信さんの声ばかりが、わたしの耳に残っているのは、不思議に思われてなりません。
それはね、わたしこう思いますのよ、弁信さんはほんとうに、わたしのことを思っていて下さる、その真心《まごころ》が深く、わたしの心に通じているから、それで、わたしが弁信さんを忘れられないものにしているのじゃないでしょうか。こうして、遠く離れていましても、弁信さんは、絶えず、わたしの身の上を心配していて下さる。そのお心が夢にも現《うつつ》にも、わたしの上を離れないから、それで、わたしは、不意にあなたの面影を見たり、声を聞いたりするのじゃないかと思ってよ。
ほんとうに、弁信さん、あなたほど深く人のことを思って下さるお方はありません。それは、わたしにして下さるばかりでなく、どなたに対しても、あなたという方は、しんの底から親切気を持っておいでになる。わたしは、それを、しみ
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