承知のはず。
「ナアーニ、五人力あろうが、十人力あろうが、おれの匙《さじ》にかかっちゃあ堪《たま》らねえ」
道庵は、その加賀様御用の提灯をたずさえて、跣足《はだし》で、尻はしょりで、とうとう問題の渦の中へ飛び込んだのは、酔興とはいいながら、本当によせばいいのです。
「御免よ……これ馬子様、お腹も立とうが、どうか、この道庵にめでて、十八文に免じて、今日のところは一つ……」
問題の提灯を、いきり立った馬子の裸松《はだかまつ》の前へ持ち出し、
「幸い、持合せがございますゆえ……新しいのを一本差加えまして……」
と言って、さいぜん峠で買ったばかりの蝋燭《ろうそく》を一本だけ差加えて、うやうやしく馬子の裸松の前へ出すと、これはかえって裸松の怒りに油をさしたようなもので、
「ふ、ふ、ふざけやがるない、この筍《たけのこ》め」
提灯を引ったくって、道庵の横面《よこっつら》を一つ、ぽかりと食《くら》わせました。
それで道庵がひとたまりもなく、二間ばかりケシ飛んでひっくり返ったが、そんなことに腰を抜かす道庵とは、道庵がちがいます。
「この野郎様、おれをぶちやがったな、さあ勘弁ができねえ、おれを誰だと思う、江戸の下谷の長者町で……」
といったが、江戸の下谷の長者町あたりでこそ、道庵といえば、泣く児も泣いたり、だまったりするが、中仙道の軽井沢あたりへ来たんでは、あまり睨《にら》みが利《き》かないことを、この際、気がつかないでもないと見え、
「おれの匙《さじ》にかかって命を落した奴が二千人からある、人を殺すことにかけては、当時この道庵の右に出る奴は無《ね》え……人を見損なうと承知しねえぞ」
といって、起き上ると、ひょろひょろと駈け寄って、裸松の前袋に食い下りました。
知らないほど怖《こわ》いことはない。裸松とても、道庵がソレほどの勇者であると知ったら、少しは遠慮もしたろうに。道庵としても、こいつが街道名代の悪《わる》で、五人力あるのが自慢で、人を見れば喧嘩を吹っかけるのが商売だと知ったら、少しは辛抱もしたろうに。何をいうにも、道庵は酔っています。この、ひょろひょろしたお医者さん体《てい》の男が、いきなり飛んで来て前袋へ食いついたから、さすがの裸松がその勇気に驚いてしまいました。少なくとも、自分を向うへ廻して腕ずくで来ようという奴は、上は善光寺平から、下は碓氷《うすい》の坂本までの間
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