にあるまいと信じていたところ、その自信をうらぎって、ちっとも恐れず武者ぶりついて来た勇気のほどには、裸松ほどのものも、一時《いっとき》力負けがして、こいつはほんとうに柔術《やわら》でも取るのか知らと惑いました。
必死となって裸松の前袋に食いついた道庵は、そこで、やみくもに身ぶりをして、ちょうど器械体操みたようなことをはじめたから、一旦は戸惑いした裸松が、ええ、うるせえ、一振り振って振り飛ばそうとしたが、先生は、しっかりと前袋にくいついて、離れようとはしません。
その間に――悧巧《りこう》な例のお差控え連は事面倒と見て、道庵にこの場をなすりつけ、三人顔を見合わせると、一目散《いちもくさん》に逃げ出しました。それも街道を真直ぐに逃げたんでは危険と思ったのか、わざと人家の裏へそれて逃げ出したから、裸松が、いよいよおこってわめき出し、
「御用提灯を粗末にされちゃ、おれは承知しても、加賀様が承知しねえ、待ちやアがれ!」
道庵を前にブラ下げたり、引きずったりしたなりで、逃げ行く侍たちのあとを追いかけました。そこで軽井沢の宿は家毎に戸をとざすの有様です。
しかし、この道庵の食い下り方が、非常にしんねり[#「しんねり」に傍点]強かったために、裸松は思うように駆けることができず、とうとう三人の侍の姿を見失ってしまいましたから、裸松の怒りは一つになって、道庵の上に集まったのはぜひがありません。
「この筍《たけのこ》……いらざるところへ出しゃばりやがって……」
哀れや道庵は、ここで五人力の犠牲にならなければならない。両刀を帯した三人づれの侍すらが避けて逃ぐるほどの相手を、いかに道庵でも、匙《さじ》一本であしらわなければならないのは、心がらとはいえ、ばかばかしい話で。だから最初によせばいいのにといったのに、病では仕方がない。
そこで、ようやく道庵を振り飛ばした裸松は、二度ひょろひょろとして、三間ばかりケシ飛んで尻餅をついた恰好《かっこう》の珍妙なのと、口ほどにもない脆《もろ》さかげんとに吹き出してしまって、
「ザマあ見やがれ」
ところが、懲《こ》りも性《しょう》もない道庵は、また起き上って、ひょろひょろと裸松に組みついて来たのを、今度は前袋へも寄せつけず突き倒し、襟髪《えりがみ》を取って無茶苦茶に振り廻しました。
かかる時節に、宇治山田の米友が来ないというのが間違っている。
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