づな》をそこへ抛《ほう》り出した一人の馬子、相撲取と見まがうばかりの体格のやつが、諸肌《もろはだ》ぬぎに、向う鉢巻で、髭《ひげ》だらけの中から悪口をほとばしらせ、
「待ちやがれ――この三ぴん」
 追いかけて、つかまえたのは、さいぜん道庵先生が嘲笑《あざわら》った三人連れのお差控え候補者の中の、いちばん年かさな侍の刀の鐺《こじり》です。
「すわ」
と、北国街道がドヨめきました。
「何、何事だ」
 刀の鐺をつかまえられた侍はもちろん、三人ともに眼に角を立てて立ちどまりますと、くだんの悪体《あくてい》な馬子が、怒りを向う鉢巻の心頭より発して食ってかかり、
「見ねえ、あ、あれを、どうしてくれるんだい、やい、あの提灯をよう」
「ははあ、あれは貴様のか、急いだ故につい粗忽《そそう》を致した、許せ」
 年かさな侍が陳謝して過ぎ去ろうとしたのは、たしかに自分が、右の馬子とすれちがいざまに、あの提灯に触って振り落したという覚えがあるから、聞捨てならぬ悪口ではあるが、軽く詫《わ》びて通ったのが勝ちと思ったからです。
「何、何をいってやがるんだ、あれは貴様のか、急いだためついしたそそうだと……よく目をあいて拝みやがれ、あれは加賀様の御用の提灯だわやい」
 かさにかかった悪態《あくたい》の馬子は前へ廻って、件《くだん》の侍の胸倉を取ってしまいました。そこで軽井沢の全宿が顫《ふる》え上りました。
 道庵先生は、これは自分の頭へ提灯が降って来た以上の出来事だと思いました。自分の頭も多少痛かったが、いわばそれは飛ばっちり[#「飛ばっちり」に傍点]で、本元は今そこで火の手が揚っているのだ……こういう場合に、よせばいいのに、道庵がのこのこと現場へ出かけたのは、まことによけいなことです。
 道庵は問題の提灯《ちょうちん》をさげて、尻はしょりで、盥《たらい》から跣足《はだし》のままで抜からぬ顔で、火元へ出かけようとするから、玉屋のあだっぽい飯盛《めしもり》が、飛んで出て、
「お客様、およしなさいまし、ほってお置きなさいまし、あれは裸の松さんといって、加賀様の御用を肩に着て、力が五人力あるといって、街道きっての悪《わる》で通っていますから――」
 そっと、ささやいて道庵を引留めましたけれど――およそ道庵の気性を知っている限りの人においては、左様な諫言《かんげん》を耳に入れる人だか、入れない人だかは、先刻御
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