さ》ましたのは。女が眼を醒まして、自分の眼前に光をさしつけて、自分を覗《のぞ》いている人のあることを悟ったのは。
それと気がつくと女は、嫣乎《にっこり》と笑い、
「いつお帰りになったの……」
「いま」
「そうですか。わたし、あれからズット寝通してしまいました、ちっとも眼が醒《さ》めませんでしたのよ、ずいぶんよく寝てしまいましたわね。いったい、もう何時《なんどき》でしょう」
「もう、日が暮れてしまったよ」
「誰も尋ねて来やしなくって? 誰もわたしを追いかけては来ませんでしたか」
「誰も来た様子はありません」
「誰が来ても、いわないようにして下さいね、どんな人が尋ねて来ても、わたしを渡さないで下さいね、いつまでもここへ隠して置いて頂戴」
「…………」
「もし、あなたが、誰かにわたしを渡してしまえば、わたしはまたその人の玩具《おもちゃ》にされてしまいます……あなたがもし、わたしをかわいそうだと思召《おぼしめ》すならば、ここへ置いて下さい。わたしの身はどうなってもかまわない、人に苛《さいな》まれようとも、蹂躙《ふみにじ》られようとも、かまわないと思召すなら、わたしを突き出してもようござんすけれど、あなたは、そんな惨酷《ざんこく》なお方じゃなかろうと、わたしは安心していますのよ、ほんとうに、わたしという人は、どうしてこう意気地がないんでしょう、昔はこんなじゃなかったんですけれども、今はもう駄目なのよ、人に甘い言葉をかけられると、ツイその気になってしまうんですもの……誰かしっかりした人がついていてくれなければ、この上、どこまで落ちて行くか知れません。ごらんなさい、わたしの前にあるあの深い、怖ろしい穴を……」
いくらか精神の昂奮もおちついたと見えて、さいぜんのような聞苦しいことも言わず、しおらしく訴える言葉にも、情理があって痛わしい。そこで、駒井はやさしく、
「ともかく、お起きなさい――もう夕飯の時刻です、あちらで一緒に食べましょう」
「どうも済みません」
そこで女は快《こころよ》く起き上りました。
やがて、食堂としてある一間で、駒井と、金椎と、新来のお客と三人が、食卓にさし向っての会食が始まりました。女はしきりに金椎に話しかけてみましたけれども、利《き》き目がないのを不思議がっていると、駒井が両耳に手を当てて、その聾《つんぼ》であることを形にして見せました。
「かわいそ
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