も七十にもわけて、三百人もの大名小名どもが食い合っていて何になる。
駒井は今、その海と船との信仰に、全身燃ゆるが如き思いを抱いて、万里の海風に吹かれながら、黄昏《たそがれ》の道をおのが住家へと戻って来ました。
駒井甚三郎は燃ゆるが如き熱心を抱いて、わが住居へ帰って来ましたが、金椎《キンツイ》を呼んで夕飯を取る以前に、自分の居間へ入ると、燭台に蝋燭《ろうそく》の火をつけて、かなり疲労していた身体《からだ》を、いつもするように、ぐったりと寝台の上へ投げかけようとして、蛇でも踏んだもののように、急に立退いてしまいました。
忘れていたのです。自分の寝台は、それよりズット以前から人に占領されていました。その人は今もいい心持で、寝台の上に熟睡の夢を結んでいるところであります。
真に忘れていた。忘れていたのがあたりまえで、これまでかつて他人のために占領された歴史のないこの寝台です。不意に自分を驚かすところのいかなる客でも、ここを占領しようとはいわない。それをこの客に限って、無作法の限りにも、許しのないうちに、早くもここをわが物にして、主人の帰ったことをさえ知らずにいる。しかもそれが妙齢の女であります。
駒井は呆《あき》れ果てて、暫くそのキャンドルを手に翳《かざ》したままで、女の寝姿を見つめていました。
少なくとも眠っている間は無心でしょう。無心の時には、人間の天真が現われる。ともかくもこれは卑しい娘ではありません。金椎がかけてくれた通りに、毛布を首まで纏《まと》って、枕一杯に、濡れたように黒い後れ毛が乱れていました。
駒井はそれを、眼をはなさず見ていましたが、この時はまた別の人です。今までの野心も、熱心も、希望も、一時に冷却して、美しい娘の寝顔に注いでいる。
そうしているうちに、つくづくと浅ましさと、いじ[#「いじ」に傍点]らしさの思いが、こみ上げて来るのであります。もとより狂人のいうことは取留めがない。自分の頭に巻き起るさまざまの幻想を、いちいち事実と混合してしまうこともあれば、不断の脅迫感に襲われて、あらぬ敵を有るように妄信していることも限りはないのだから、狂人のいうことを、そのままに取り上げるわけにはゆかないが、さきほど言ったことの浅ましさが、こうして見ると、いよいよ身にこたえる。罪だ! と駒井甚三郎は戦慄して、怖れを感じました。
この時です、女が眼を醒《
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