は退いて研究し、今やそれをなしとげようとしている。こればかりは親しく外遊して学ぶにあらざれば不可能、といわれている蒸気の製造を、駒井は自分の学問と、従来の経験とで、必ず成し遂げて見せるとの自負を持っている――それに比ぶれば大砲の据付けの如きは、易々《いい》たる仕事ではあるが、すべてにおいては、この事業、すなわち、駒井甚三郎の独力になるこの西洋型の船の模造は、模造とはいうが、事実は創造よりも難事業になっている。
その難事業がともかくも着々と進んで行くのを眺めることは、この上もない興味であり、勇気であり、神聖であるように思わるる。
だから駒井は、ここへ来て、事に当ると、その事業の神聖と、感激に没入して、吾を忘れるの人となることができる。
それと、もう一つ――駒井をして、この自家創造の船というものに、限りなき希望と、精神とを、打込ませるように仕向けているのは、見えない時勢と、人情との力が、背後から、強く彼を圧しているのです。
駒井は、今の日本の時世が、行詰まって息苦しい時世であり、狭いところに大多数の人間が犇《ひしめ》き合って、おのおの栗鼠《りす》のような眼をかがやかしている時世であることを、強く感じている。
国民に雄大な気象が欠けており、閑雅なる風趣を滅尽しようとしている。他の大を成し、長をあげるというような、大人らしい意気は地を払って、盗み、排し、陥れようとの小策が、幕府の上より、市井《しせい》のお茶ッ葉の上まで漲《みなぎ》っている。
創造の精神が滅びた時に、剽窃《ひょうせつ》の技巧が盛んになる。このままで進めば、日本国民は、挙げて掏摸《すり》のようなものとなってしまい、掏摸のような者を讃美迎合しなければ、生活ができなくなってしまう。その結果は、国民挙げて共喰いである……心ある人が、こういう時世を悲憤しなければ、悲憤するものがない。だが、幸いにして駒井甚三郎は、この時世を充分に見ていながら、病気にもならず、憤死することもないのは、要するに、前途に洋々たる新しい世界を見、その世界に精進《しょうじん》する鍵を、自分が握っているとの強い自信があるからです。
その洋々たる新世界とは何――それは海です。海は地球表面の七割以上を占《し》めて、しかもその間には国境というものがない。
その鍵とは何――それはすなわち船です。
この日本は美国ではあるが、この美国を六十に
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