はまた豪傑の士に逢うと、好んでこういう手段を弄《ろう》したがる男である。
 そこで、仏頂寺弥助と竹刀《しない》の立合。高杉はそうそうは負けてもおられまい。といって高杉は剣術使いではない。
 尋常では勝てないことを知っている彼は、立合の場へ立つと、いきなり交叉してあった竹刀を取り上げ、
「オメーン!」
 まだ立合わない仏頂寺の頭を一つ食《くら》わせてしまった。仏頂寺大いに怒り、
「まだ、礼式も相済まぬうちに、頭を打つとは何事でござる、無作法千万」
 高杉晋作は、いっかな聞かない。
「何とおっしゃる、貴殿もし、戦場に臨み、敵に頭を斬られてなお礼式呼ばわりをなさるか」
「以ての外、ここは戦場ではござらぬ」
「いやいや、立合の場は戦場と同様でござる、貴殿の頭は、もう拙者が打ち割ってしまったのでござる」
「強弁を振いたまわず、いさぎよく立合って勝負をさっしゃい」
「勝負はすでについてござる、拙者の勝ちでござる」
 仏頂寺が躍起になって怒るのを、高杉は頑《がん》として勝ちを主張してこの場を去った。これは高杉一流の手前勝手。
 とにかく、仏頂寺弥助は当時有数の剣客でありました。
 それはさて置き、この二人が今しも一酌を試みて談笑しているところへ、最前二人にオドかされてほうほう[#「ほうほう」に傍点]の体《てい》でこの座敷を逃げ出した宿の番頭が、恐る恐るやって来て、
「御免下さいまし、ただいまお話のお万殿のことは、この本にくわしく書いてあるそうでございます」
「うむ、そうか」
 番頭は一冊の本を置いて、逃ぐるが如く走《は》せ去ってしまいました。
「ナニ、諏訪昔語りか……」
 丸山勇仙が、その本を取り上げて見ると、こくめい[#「こくめい」に傍点]に書いた写本であります。
「お万殿のこと……」
 二三枚めくって、ある点に急がしく眼を飛ばせて走り読みをすること暫し。
「なるほど、これで、すっかりわかった」
「どういう仔細だ」
 そこで丸山勇仙は、仏頂寺弥助に向って、自分が走り読みしたお万殿の部分を、次の如く要領よく話して聞かせました。
 天正十年のこと、織田信長がこの国に侵入して、法華寺《ほっけでら》というので兵糧《ひょうろう》を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が一人入って来ました。
 この女房は信長の前へ出ると、懐中した錦の袋から茶入を出して信長に見せると、信長は何に激したか大いに怒り、刀を抜いてこの女房を一太刀《ひとたち》に斬って捨ててしまいました。
 この女房というのがすなわちお万殿で、もとは、美濃国岩村の城主遠山勘太郎が妻、信長のためには実の伯母《おば》です。岩村の城陥落の時、武田家の将、秋山伯耆守の手に捕われ、ついに伯耆守の妾となって、少しも恥ずる色がなく仕えていたから、信長が怒りに堪えずこの始末。
 それで、お万殿の恨みが消えない。遊魂《ゆうこん》今もさまようて、夜な夜な神詣《かみもう》でをするといういいつたえが残る。
「ははあ、ではそのお万殿というのが、色々の小袖を着て、錦の袋に茶入を納め、それを捧げながらこの前を通って、諏訪明神へ参詣というわけだな。そうなると、いよいよ見てやりたくなる」
 仏頂寺弥助がいいますと、丸山勇仙は、
「それはなんとなく忍びない心持がする、見てやらないのが人情だろう」
 その時、盃の酒の冷えたのに気がつきました。

         十二

 こちらの座敷では、明朝塩尻までの馬の相談にいって来た久助が、どこで聞いて来たか、前のとほぼおなじようなお万殿のいわれを、お雪に向って話すと、
「かわいそうだわね、それではお万殿の恨みが残るのも無理がないわ」
といいました。
「どうも仕方がねえ、敵の大将に肌をゆるしたんだから――」
 久助は鈍感な返事。
「だって、かわいそうですわ、生捕りにされちまったんですもの」
「生捕りにされたって、お前様、敵の大将に肌をゆるせば、後で殺されたって仕方がない」
 久助は、仕方がないで押切るのを、お雪は残念がって、
「それでも……常磐御前《ときわごぜん》をごらんなさいな、義朝《よしとも》につかえていて、あとで清盛の寵愛《ちょうあい》を受けて、それでも貞女といわれてるじゃありませんか」
 お雪は常磐御前を味方に連れて来て、久助をいいこめようとする。久助は迷惑がって、
「ありゃお前様、子供を助けたいからなんでさあ。源氏の胤《たね》を残したいから、仕方がなしにああなったんでしょう」
「仕方がないといえば、お前、お万殿だって、戦《いくさ》に負けて敵に囲まれてしまえば、なお仕方がないじゃないの。自害しようたって、できないこともあるでしょう。わたし、お万殿はちっとも悪い人じゃないと思ってよ。信長の前へ色々の小袖を着て、錦の袋に納めた茶入を持って来て見せるなんて、しおらしいじゃないの。きっと
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