大菩薩峠
白骨の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揃《そろ》え

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信州善光寺|如来《にょらい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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         一

 この際、両国橋の橋向うに、穏かならぬ一道の雲行きが湧き上った――といえば、スワヤと市中警衛の酒井左衛門の手も、新徴組のくずれも、新たに募られた歩兵隊も、筒先を揃《そろ》えて、その火元を洗いに来るにきまっているが、事実は、半鐘も鳴らず、抜身の槍も走らず、ただ橋手前にあった広小路の人気が、暫く橋向うまで移動をしたのにとどまるのは、時節柄、お膝元の市民にとっての幸いです。というのはこのほど、両国の回向院《えこういん》に信州善光寺|如来《にょらい》のお開帳があるということ。そのお開帳と前後して、回向院の広場をかりて広大な小屋がけがはじまったこと。その小屋がけの宣伝ビラが、早くも市中の辻々、湯屋、床屋の類《たぐい》に配られて、行く人の足を留めているということ。
 その宣伝ビラもまた、小屋がけの規模の大なると同じく、ズバ抜けて大きなものへ、亜欧堂風《あおうどうふう》の西洋彩色絵で、縦横無尽に異様の人間と動物とを描き、中央へ大きく、
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「切支丹《きりしたん》大奇術一座」
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 この宣伝ビラは、宣伝ビラそのものがたしかに人気を集めるの価値がありました。
 幕府の威力衰えたりといえども、西洋の風潮、多少人に熟したりといえども、「切支丹」の文字は字面《じづら》そのものだけで、まだたしかに有司を嫌悪《けんお》せしめるの価値がある。
 果せる哉《かな》。この宣伝ビラの「切支丹」の文字だけに、翌日から張紙がされて、その上に改めて、「西洋」の二字が記されました。
 この興行の勧進元が役所へ呼び出された時に、どんな食えない奴かと思えば、意外にもそれは女で、お上のお叱りに対して、一も二もなく恐れ入り、早速、人を雇うて満都の宣伝ビラを訂正にかからせたのは素直なもので、決してことさらに反抗的に宣伝して、人気を煽《あお》ろうというほどな陋劣《ろうれつ》な根性に出でたのではなく、誰かにそそのかされて、何の気なしにやったことが諒解が届いたから、役人たちも、単に張紙をさせるだけで、後は問いませんでした。
 この勧進元の女こそ、女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》であります。ともかく、今度の興行には、有力なる金主か黒幕が附いたに違いない。従来の広小路の軽業小屋では狭きを感じて、新たに回向院境内へすばらしい小屋を立てたのでもわかります。
「御冗談でしょう、看板でオドかそうなんて、そんなケチな真似をするお角さんとは、憚《はばか》りながらお角さんのカクが違いますよ、蓋をあけたら正味を見ていただきましょう、正銘手の切れる西洋もどりのいるまん[#「いるまん」に傍点]ですよ。大道具大仕掛の手間だけでも、お目留められてごらん下さい、小手先のあしらいとは、ちっと仕組みが違うんですからね」
 こういってお角が気焔を吐いているところを見れば、おのずからその自信のほどもうかがわれようというものです。
 事実、このたびの興行は、以前のようなケレン気を脱したところがある。宇治山田の米友を黒く塗って、印度人に仕立てて当りを取ったペテンとは違って、何か、しっかり[#「しっかり」に傍点]した拠《よ》りどころがなければ、こうは大げさになれないものです。
 ここに慶応のはじめ、大小日本の手品を表芸《おもてげい》にして、イギリスからオーストリーを打って廻り、明治二年に日本へ帰って来た芸人の一行がある。白い紙を蝶に作って、生命を吹き込んだ柳川一蝶斎を座長として、これに加うるに、大神楽《だいかぐら》の増鏡磯吉、綱渡りの勝代、曲芸の玉本梅玉あたりを一座として、日本の朝野《ちょうや》がまだ眠っている時分に、世界の大舞台へ押出した遊芸人の一行があります。その一行の中から、何か目論《もくろ》むところがあって、英国の興行中に、急に便船によって日本へ帰って来たものがある。それが、御家人崩れの福村あたりから、この社会へ何か渡りをつけたようです。
 遊芸――なるが故に国境が無かった。吉田松陰は、これがために生命を投げ出し、福沢諭吉も、新島襄《にいじまじょう》も、奴隷同様の苦しみを嘗《な》め、沢や、榎本《えのもと》は、間諜同様に潜入して、辛《から》くもかの地の文明の一端をかじって帰った時分に、柳川一蝶斎の一行は、悠々として倫敦《ロンドン》三界《さんがい》から欧羅巴《
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