記《じんこうき》とはちがうんですもの、土地の人に聞いてみなければ」
「番頭さんが知らないくらいだから、土地の人だって知っちゃいますまいよ」
と久助がいう。
「年寄の物識《ものし》りに尋ねたらわかるでしょう」
「それほど詮索をしなくったって、やっぱり郷に入っては郷に従えですよ、こういう晩には早寝に限ります」
「それもそうですね」
 お雪は、まだ解ききれない塵劫記《じんこうき》の宿題でも残っている心。
 その時、お雪は、ふと行燈《あんどん》の下の暗いところで何物をか認め、
「おや、こんなところに櫛《くし》が落ちているわよ……」
と拾い上げて、
「まあ、二つに割れていることよ」
 お雪の手にしたのは、まだ新しい木曾のお六櫛。
 拾っても悪い、落しても悪いという女の櫛。しかもそれが自分のほかには女のいないこの席に、真二つになって落ちていた。
 お雪はその時、なんとも言えない忌《いや》な気持になりました。

         十一

 この座敷は、それで済まされたが、どうしてもそのままでは済まされない座敷がありました。
「ナニ、九ツ半過から外へ出るな、お万殿の夜詣りがある、それを見ると祟《たた》りがあるとは奇怪千万」
 元治《がんじ》元年に京都で暗殺された佐久間象山の門生が二人――ちょうどこの宿屋に泊り合せていたのが肯《うけが》いません。
 第一、そういう迷信のために、一種の交通遮断を行うのは、迷信を仮《か》りての暴虐である。これに甘んじて従うのは近代人の恥辱である。と力《りき》んだわけではないが、久助や、お雪ほどに素直《すなお》にはゆかない。
「そのお万殿とはなにものだ」
「ええ、何でございますか、手前もよくは存じませんが……」
「知らない、貴様が知らぬことを、ナゼ人に強《し》ゆるのだ」
「恐れ入りました、よくは存じませんが、お万殿が九ツ半過にここをお通りになって、諏訪の明神様へ御参詣をなさるのだそうで」
「そのお万殿とやらが、参詣をするために、なんでわれわれが外へ出て悪いのだ。お万殿というのは禁裏のお使か、或いは将軍の代参でもあるのか」
「いいえ、そういうわけではございません、それにいきあうとたたり[#「たたり」に傍点]がありますので」
「たわごとをいわずに引込んで、誰かその因縁を知ったものをつれて来い、さもない時はわれわれが、今夜親しくそのお万殿の正体を見とどけて遣《つか》わすぞ」
「はい」
 番頭は青くなりました。青くなったのは、この連中に向っては迷信の権威が甚だ薄いから、よく納得《なっとく》させないかぎり、必ずや九ツ半を期して、その正体を見届けに出かけるに相違ない。そうなると、まんいち間違いの出来た時に責任がある。と思ったから青くなってほうほう[#「ほうほう」に傍点]の体《てい》で、この座敷をすべり出しました。
 ここに二人の佐久間象山の門生――といっても象山門下を名乗るものにかぎりはない。ちょっと玄関をのぞいただけでも、都合上その門生の名を利用するものも多い。宿帳にはそうはしるさなかったが、一人は丸山勇仙、一人は仏頂寺弥助、共に信州|松代《まつしろ》の人としてある。
 丸山は書生であり、仏頂寺は剣客であります。従って丸山はよく洋書を読み、仏頂寺はよく剣を使う。丸山の学力のほどは知らず、仏頂寺の剣は当時に鳴り響いたものです。
 この仏頂寺弥助と、長州の高杉晋作とが試合をしたことがある。その前に、高杉晋作が、はじめ佐久間象山に謁見《えっけん》した逸話がある。
 高杉晋作、天下第一の気概をいだいて、江戸に出でて書剣を学ばんとす。その師吉田松陰の勧めに従い、道を信濃に取って佐久間象山に謁す。象山、つくづくと晋作を見て、
「君は幾つになる」
「二十一」
 そこで、象山が、またも晋作の面《おもて》をつくづくとうちまもり、嘆息すること久し。
 晋作はその時、内心得意でありました。象山が嘆息したのは、おれの英雄心を見て取っての感嘆であろう。そこで、
「先生、僕の歳を聞いて、ナゼそのように御嘆息をなさる」
「されば」
と象山は徐《おもむ》ろに曰《いわ》く、
「おれは十五歳にして、信濃一国に鳴り、二十歳にして日本全国に鳴り、三十歳にして五大州に鳴る。君は二十一歳というのに、おれはまだ高杉晋作なるものの名を聞いたことがない。いったい、君はどこへ年を取っているのだ」
 これには、さすがの高杉東行も、黙然《もくねん》として一言もなかった。
 ここにいる仏頂寺弥助と高杉晋作とが試合を試みたのはその時です。
 仏頂寺は斎藤弥九郎の高弟。そのころ無敵といわれた道場荒し。
 当時の佐久間象山は、水戸の藤田東湖と共に一代の権威。諸侯も礼を厚うして、辞を卑《ひく》うしなければ教えを乞うことのできぬ人だから、高杉もこの人に逢っては、油を絞られるのもぜひがない。象山
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