御免下さいまし」
 そのやわらかな手を、首筋から頬のあたりへうつした時に、竜之助の面《おもて》がひときわ蒼白《あおじろ》くなりました。
「もうよろしい」
「どうも失礼を致しました……いいえ、お代はあとで帳場からいただきます」
といって、女が出て行ってしまったあとで、竜之助は、自分の身に残るうつり[#「うつり」に傍点]香《が》といったようなものに、苦笑いをしました。
 これは売女《ばいじょ》の類《たぐい》だ。物を売ることにかこつけて、色を売らんとする女。よく温泉場などにあった種類の女――おれをそそのかしに来たのがおぞましい。
 とはいえ、今の竜之助にあっては、女というものの総ては肉である。美醜をみわけるの明《めい》を失っているから、美のうちに貴《たっと》ぶべきものの存するのを発見することができない。醜を感知するの能を失ってから、醜の厭《いと》うべきを知って避けるの明がない。
 いや、それは単に女ばかりではあるまい。この男は、すべてにおいて、むずかしくいえば、宗教がなく、哲学がなく、またむしずのはしる芸術というものがない。ただあるものは剣だけです。勝つことか、負けることかのほかに生存の理由がないので、恋というものも、所詮《しょせん》は負けた方が倒れるものである。心中の場合においては、大抵、男が女に負けて引きずられて行くのである。曰《いわ》く薩長、曰く幕府、曰く義理、曰く人情、みな争いである。争いでなければ、争いを婉曲《えんきょく》に包んだものに過ぎない。人間日常の礼儀応対までが、この男の眼――見えない眼を以て見れば、ことごとく剣刃《けんじん》相《あい》見《まみ》ゆるの形とならないものはない。いやまだまだ、人間の生存そのものが、また一つの立合である。
 一剣を天地の間《かん》に構えて、天地と争って一生を終る――所詮、天地の間に吐き出されて、また天地の間に呑まれ了《おわ》るものと知るや知らずや。生存ということは、天地の力に対抗して、わが一剣を構ゆることに過ぎない。わが一剣の力衰えざる限り、天地の力といえども、如何《いかん》ともすることができない――と、彼はそう思わないで、そう信じている。
 女というものに触れる時――彼は、いつでも戦いを挑《いど》まれたように思う――そうしてこれを斬ってしまわなければ己《おの》れが斬られてしまうように思う。この場合においては、相手の善悪美醜を選ぶのいとまがないのです。

 まもなく久助とお雪は外の湯から帰って来て、鮒《ふな》や小蝦《こえび》をお茶菓子に、三人お茶を飲みました。そこへ、宿の番頭がやって来て、
「ええ、御免下さいまし、毎度、御贔屓《ごひいき》に有難う存じます。ええ、それからちょっと申し上げておきまするは、今晩のところは、土地の風習で、お万殿の夜詣りということになっておりますから、九ツ半過ぎては、外へお出ましにならぬように、なにぶんよろしくお願い申します」
と言う。
「何ですって」
 それをお雪が聞きとがめると、番頭が、
「お万殿の夜詣りでございまして、はい」
と番頭が答える。
「お万殿の夜詣りというのは何ですか」
 お雪が念を押してたずねる。
「ええ、何でございますか手前もよくは存じませんが、月に一度ずつ、お万殿の夜詣りということがございまして、その晩、九ツ半過、外へ出ますと、祟《たた》りがあるといい伝えられているのでございますから、なにぶん……」
「ええ、ようござんす」
 お雪が、それを承知してしまいました。断わられなくても、大抵の人は九ツ半過、今の夜中から一時までの真夜中をかけて、出て歩く必要はないはず。
 そこで、番頭が行ってしまったあと、お雪ちゃんは、まだ何か物足らない面《かお》で、
「お万殿の夜詣りって何でしょう、外へ出ると祟りがあるんですって」
「ナニ、詮索《せんさく》するがものはがあせんよ、土地の習わしですから、郷《ごう》に入《い》っては郷に従えといってね」
「ですけれども、こんな夜更けにわざわざお詣りをなさるお万殿という方も、気が知れない」
「何か因縁があるでがしょうね」
「丑《うし》の刻《とき》詣《まい》りじゃないでしょうか。丑の刻詣りの人に道で行逢うと、祟りがあるっていいますから――」
「ですけれどね、わざわざ先触れをしておいて、丑の刻詣りをする人もないもんじゃありませんか」
「それも、そうですね」
「まあ、なんにしても九ツ半から外へ出さえしなければいいのさ、言われた通りにね」
「なんだか気がかりになるわね」
 久助は触らぬ神に祟りなしの態度を取っているが、お雪ちゃんは腑《ふ》に落ちないものがあって、あきらめきれない。あらためて竜之助に向い、
「先生、御存じですか」
「知らない」
「おかしいわね」
 お雪は首をひねって思案してみたが、
「考えたってわかりゃしませんわ、塵劫
前へ 次へ
全72ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング