スルスルと入って来たのは女の声です。竜之助は返事をしないで、なお燈火《あかり》の下で面を撫でておりますと、入って来た土産物売りは黙認を得たとでも思ったのか、
「いろいろございます、これが諏訪の明神様の絵図、こちらがおなじ明神様の神木でこしらえましたお箸、それから、湖水で取れました小蝦《こえび》と鮒《ふな》……」
ここまで並べ来った時に、物売りの女が、あっとおどろいたのは、行燈《あんどん》のあかりが消えてしまったからです。
「おや、お明りが消えました、おつけ致しましょう」
お土産物の陳列をよそにして、行燈のそばに寄った土産売りの女は、その抽斗《ひきだし》から火打道具を手さぐりで探して、やっと火をきって[#「きって」に傍点]附木にうつし、行燈の燈心を掻《か》き立てた時に、再び驚いたのは、この部屋の主は、相変らず面を剃刀で撫でていたからです。つまり、燈火の消えたのを平気で、その暗い中で相変らず面を剃っていたのであります。
「どうぞ、何か一品お召し下さいませ」
改めて、土産物売りの女は自分の座へ戻りました。
「土産を買ってやるから、この首を剃ってくれないか」
「ええ、よろしうございます」
そこで机竜之助は剃刀の柄《え》を向うにして、物売女の方へ突き出すと、物売女は気軽に受取って、
「お面《かお》の方はお済みになりましたか」
「ああ、面は済んだから、この襟足のところだけを願いたい」
「はい、お明りをこちらへ向けましょう」
女は剃刀を取って、竜之助の後ろへまわりました。
「御逗留《ごとうりゅう》でございますか……」
「一夜泊りだ」
「左様でございますか」
女は慣れた手つきで、竜之助の首筋に剃刀を当てて後ろに撫で卸すと、
「景気はどうです」
と竜之助がたずねますと、
「おかげさまで、この下《しも》の諏訪《すわ》は、あんまり不景気ということがございません。丁度、甲州筋からおいでの方も、中仙道を和田峠からおいでの方も、塩尻を越えて木曾の旅をなさるお方も、伊那の方からおいでの方も、みんなここへお立寄りになりますのに、諏訪のお社《やしろ》というものがございます上に、この通り温泉が湧いて出ますものですから……」
「諏訪の湖というのはどちらに当ります」
「え、湖でございますか。湖は、もうこのすぐ下がそれでございますよ、障子をあけてごらんになると、一面に……」
女は、今までそれを気がつかなかったお客は、多分、暗くなってから着いたお客だろうと思い、
「今夜は、お月夜かも知れません、障子をあけましょうか」
気を利《き》かして、女は剃刀の手を休め、客をして月明の諏訪の湖《うみ》をながめ飽かしめんとした好意を、竜之助は断わって、
「風が冷たいからそれには及ぶまい。そうだな、月というものを見たのは、いつのことか。伊勢の阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》というところで見たのが、あれが最後だろう。いや、あれは見たのではない、聞いたのだ。夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》に名を得た静かな伊勢の海、遠く潮鳴りの音がして、その間を千鳥が鳴いて通った時、浜辺と海がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と明るくなったように覚えている。多分、あの時に月がのぼったのだろう。あれ以来見たことはもちろん、聞いたこともない」
竜之助が、謎のような独語《ひとりごと》。急に剃刀の手を止めた女の面《かお》が美しいものになりました。
この女は、もうよい年ですけれども、お化粧をして、赤い縮緬《ちりめん》の前掛をしていましたが、
「まあ、伊勢からおいでになりましたのですか」
急に、晴々《はればれ》した美しい面になると、真紅《まっか》な縮緬の前掛が燃え出したようにうつり合いました。
「伊勢から来たというわけでもないが、伊勢には暫くいたことがあるのだ」
「それでは間《あい》の山《やま》をごらんになりましたか」
「間の山は見ないけれど、間の山節というのを聞いたことがある。そういうお前こそ伊勢の国のうまれか」
「わたくしは伊勢のうまれではございません、どこといってうまれた国は……まあ、渡りものなんでございますね」
「渡りもの?」
「ええ、お恥かしい話ですが、男に欺されて諸国をひきまわされたあげく、今ではこうして信州の諏訪へ来て物売りを致しておりますようなわけでございます。女というものは、水性《みずしょう》なものでございますから、男次第でどうにでもなります。ほんとうに意気地のないものでございますね、オホホホホ」
この時の女の言葉には、触《さわ》れば落ちるような甘味をふくんでいたので、竜之助は暫く沈黙しました。
「ねえ、旦那様、おついでにお面《かお》の方も、もう一ぺんあた[#「あた」に傍点]って上げましょうか。殿方のおあたりになったよりも、これでも女の方が、手ざわりがいくらかやわらかになるかも知れません。
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