神《うぶすな》の森の中なり。折として篝《かがり》を焚くことあり。翌日《あけのひ》見れば青松、柴の枝、燃えさして境内にあり。或はまた青竹の大きなる長さ一尺あまり節をこめて切つたるが森の中にすてありける。これは彼《か》の鼓にてあるべしと里人のいひあへり。ただ囃《はやし》の音のみにして何の禍ひもなし。月を経てやまず。夏のころより秋冬かけてこの事あり、次第次第に間遠《まどほ》になり、三日五日の間、それより七日十日の間をへだたり、はじめの程は聞く人も多くありて何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年《あくるとし》、春のころ囃のある夜は里人も門戸を閉ぢて戸出《とで》をせず、物音高くせざりしなり。春の末がた、いつとなくやみけり」
[#ここで字下げ終わり]
この怪しむべき囃子の音が、信濃坂を去って、ようやく西にのぼり、ここ武蔵と、相模と、甲斐の国とが、三つ巴《どもえ》に入り込んだ山里のあたりを驚かせているものと見えます。
このごろ、遠音《とおね》にその音を聞くと、土地の者は、おそれをなして早く戸を締める。ことに上野原の町ではちょうど、火の見柱の下で盗賊が狼に食われた前後のことでしたから、その遠音の囃子《はやし》を一層おそれたものです。
しかしながら、偶然、足を踏み入れたお銀様にとっては、この囃子の音が、いよいよ人里を近いものにして、足の疲れを忘れさせるだけの力はありましたが、それも行くことやや暫くにして、その囃子の音、ようやく遠くなるような気がしたものですから、またしてもお銀様は小高いところをえらんで、最初に認めた火の光を追おうとしました。
この山中にあって、今しも、この怪しむべき囃子の音を聞きつけたものは、お銀様だけではありません。三頭山《みとうさん》の連脈を縦走して、熊倉山腹の炭焼小屋附近に露営をしていた二人の者が、同じくこの囃子の遠音に耳をそばだてました。その一人は猟師の勘八と、もう一人は宇津木兵馬であります。
思いもかけぬ時とところで、囃子の音を聞いたものですから、宇津木兵馬は覚えず目をあげて、音のする方をながめると、猟師の勘八が心得顔《こころえがお》に、
「そらはじまった、お化け囃子がはじまった。久しく止んでいたと思ったら、また、はじめやがった」
「あれは何です」
「お化け囃子といって、ああして響きは聞えても、起るところがわかりましねえ。よっぽど不思議な囃子でございます」
「しかし、さほど遠いところでもないようだが」
「左様でがす、どこで聞いても同じように聞えるんで。三里遠くで聞いても、五里遠くで聞いても、あのくらいに聞えるんでがすよ。お化けか、そうでなければ天狗様のいたずらでがんしょう」
「お前は、それを調べてみましたか」
「いいえ、そういうことはしてみましねえ」
「さまで遠くはないようだ」
九
けれども、響きがあって物のないという道理はありますまい。これをお化け囃子と名づけ、天狗のいたずらと怖れてしまうのは、それを究《きわ》める人に、究めるだけの勇気と根気とがないせいでありましょう。
現に、陣馬、和田、熊倉、生藤《しょうとう》の間に囲まれた谷の中に、篝《かがり》を焚いて、カンラカンラと鼓を打ち、ヒューヒューヒャラヒャラと笛を吹いている一団があるのであります。
ここに篝を囲むほどの連中が、みな仮面《めん》をかぶっている。鼓を打ち、笛を吹き、鉦《かね》を鳴らすものも、みな仮面をかぶっている。その仮面は、ありふれた里神楽の仮面もあれば、極めて古雅なる伎楽《ぎがく》の面《めん》に類したのもあるが、打見たところ、篝の周囲に集まるほどのものが、一人として素顔《すがお》を現わしたのはありません。
そうして、かれらの或る者は太鼓を叩き、或る者は笛を吹き、或る者は鉦を打って、残りの者がことごとく踊っている。一見すれば極めて古怪なる妖魅《ようみ》の集《つど》い――
彼等は、拍子に合わせて、さんざんに踊ると、赤頭《あかがしら》に猩々《しょうじょう》の面をかぶったのが、
「いかにおのおの方、大儀に覚え候《そうろう》ぞ、一休み致して、また踊ろうずるにて候ぞ」
謡《うたい》がかりの口調でいうと、
「畏《かしこ》まりて候なり」
一同が踊りをやめて休息に入る。無論、囃子の音も、その時はヒタとやみました。
囃子も、踊りも、ひときわ休息に入ったけれども、この連中のすべてが仮面《めん》を取ることをしませんから、誰がどうだと正体のほどはわかりません。
幾つかの篝《かがり》で、そこらは白昼のよう。前には小流れがあって、背後《うしろ》に山を負うて帆木綿《ほもめん》の幕屋。
この谷間の、この部分だけは白昼のように明るいけれども、周囲は黒闇々《こくあんあん》に近い山々。僅かに二日の月が都留《つる》の山の端《は
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