とじゃ、摺差《するさし》までやってくれ」
「エ?」
駕籠屋二人が呆気《あっけ》に取られました。
「摺差までやれ」
「はい」
八州の役人は、その駕籠へ近寄って、手ずから垂《たれ》を揚げたものですから、駕籠屋どもは、もう二の句がつげません。お断わりを申すにも申すべき術《すべ》もなければ、理由を見出す余裕などがあろうはずはありません。相手が泣く児もだまるはずの八州のお役人ときているのですから――
ぜひなく、この当座の空駕籠は臨時のお客を入れて、再び小仏から摺差へ戻らねばならない羽目《はめ》になりました。しかし、これは常ならばむしろ勿怪《もっけ》の幸いで、一人でも客にありついた商売冥利《しょうばいみょうり》を喜ぶはずになっているのが、今の場合はそうではありません。
「摺差まで三里はございますけれど、この三里は下りでございますから、楽でございますよ」
以前に客を残して置いたところで、駕籠屋はワザと大声でいいました。
そこでこの駕籠は、結局以前のお客を置去りにして、新しい権威ある客を乗せて、三里余りの山道を戻ってしまうのです。駕籠が山の蔭にかくれた時分に、木立から立ち出でた最初の客、恨めしげにそのあとを見送っていましたが、やがて思い返して、前路に向って力足を踏むの覚悟。
人里に遠い夕暮の山道に取残されたとはいえ、足に覚えのある者ならば、上野原までの道は、さまでは苦にならないはず。
ところが、思いきって踏み出したこの覆面のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、思いのほかに足弱でありました。三町五町歩むうちに、その疲れ方が目立ってきて、腰の物が重過ぎる。この分で三里の山道は甚だおぼつかない。ましてその間には迷い易い幾筋もの岐路《えだみち》がある。
果して、暗の落つると共に、路を失ったこの旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、左に行くべきを右にいって、甲斐と武蔵の国境を、北へと辿《たど》っているのであります。こうなると、もいっそう暗くなるのを待って、どこかに火影《ほかげ》を認めて進む方が賢いかも知れない。程経て、陣馬と和田との間の高いところへ立ったさむらい[#「さむらい」に傍点]は、そこで今まで脱ぐことをしなかった覆面を解いて、夜の高原の空気に面《おもて》を曝《さら》すと、西の空に二日月《ふつかづき》がかかっているのを見るばかりで、前後も、左右も、みな山であります。
ホッと息をついて汗ばんだ面を拭うと、べっとりと濡れた髪の毛――その髪の毛は、女にも見ま欲しいたっぷりしたのを、グルグルと櫛巻《くしまき》にして、後ろへ束ねていました。
西の空にかがやく二日月。暫く放心してその月影をながめているうちに、何に打たれてか身ぶるいしました。その時の、この人の形相《ぎょうそう》は、絵に見る般若《はんにゃ》の面影《おもかげ》にそのままであります。この人は月をながめているのではない、月を恨んでいるのです。
この高処に立って、下りて行くべき何かの暗示を求めて得ざるが故に、二日の月に空しく恨みを寄せている。
「わたしは知らない」
その恨みは女の声。その女はまさしくお銀様であります。
黒衣覆面の男の装《よそお》いして、両国のお角の宅を出し抜き、こうしてここまで辿《たど》って来たお銀様。ここでまたも方角を失いました。
ほどなく西北と覚《おぼ》しき方面の谷間《たにあい》にあたって一団の火光。
お銀様はその火を見て喜びました。
しかしながら、この一団の火光は、お銀様を喜ばす目的地方面の火ではなく、怖るべき山窩《さんか》の一団の野営ではないか。お銀様は、そんなことを一向に知りません。
お銀様が進んで行く行く手の谷間から、カラカラと神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が起りました。
それを聞いたお銀様は、いよいよ里の近くなったことを知ってよろこぶ。
あのはやし[#「はやし」に傍点]の音は、鎮守《ちんじゅ》の夜宮か、或いは若い衆連の稽古。その音《ね》をたよりに里へ出ようとして、かえって里へ遠くなることを気づかないのはぜひもありません。
この神楽太鼓の音こそ、人を迷わすものでありました。その音の響き来《きた》ることを聞いて、この音の起るところを知らない囃子《はやし》がそれです。土地の人はそれを恐れていたけれど、お銀様は、そのいわれを知らない。
当時、この附近の村里に住む人は、この太鼓の音を聞くと怖毛《おぞけ》をふるったものです。
「諸国里人談《しょこくりじんだん》」に曰《いわ》く、
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「武州相州の界《さかひ》、信濃坂に夜毎にはやし物の音あり。笛鼓《ふえつづみ》など四五人声にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所知れざりしが、次第に近く聞きつけ、その村の産土
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