》に姿を見せているばかりです。
 この時、猩々は再び立ち上って仮面《めん》の下より、
「いざ、このたびは天《あま》の返矢《かえりや》を舞おうずるにて候ぞ」
「心得て候」
 またも、一同が入りみだれて、舞の庭に立ち上る。狩衣《かりぎぬ》、差貫《さしぬき》ようのもの、白丁《はくちょう》にくくり袴《ばかま》、或いは半素袍《はんすおう》角頭巾《かくずきん》、折烏帽子《おりえぼし》に中啓《ちゅうけい》、さながら能と神楽《かぐら》の衣裳屋が引越しをはじめたようにゆるぎ出すと、笛と大拍子大太鼓がカンラカンラ、ヒュウヒュウヒャラヒャラ。
「そもそも、天の返矢といっぱ……」
 そこで踊りの面々が、おのがじし踊り出すと、恵比須《えびす》の面《めん》をかぶったのが、いちいちその間を泳いであるいて、この踊りを訂正する。手のさし方、足の踏み方を、模範を示して直してあるく。すべてが一心を打込んで踊っているうち、ひとり、例の猩々だけは踊らない。自然木《じねんぼく》の切株に腰うちかけ、中啓を以て踊りの庭を監督している体《てい》です。この時、不意に谷の一方に、けたたましいさけびが起って、一団の人が罵《ののし》りながらこの場へ入って来て、
「太夫に申し上げまする」
「何事にて候ぞ」
「ただいま、怪しい奴が、これへ忍んで参りたるによって、この通り取押えて引立てましてござる」
「なんと、怪しい奴が?」
 どちらが怪しいのだかわからない。この奇怪極まる山中の、仮面《めん》の集まりを襲うてくるもののある以上は、やはりそれ以上怪しいものも存在するかに見ゆる。
「こやつでござりまする、われわれの楽しみをさまたげんとて来りし奴、目に物見せてくりょうと存じまする」
 猩々の面前に引据えたのは、覆面にして双刀を帯する身、まさしく武士の姿。
「覆面を剥《は》いで見い」
「畏まりました」
 篝《かがり》の前へ押向けて覆面を剥ごうとする。そうはさせまいとする。やがて意外のさけび、
「やあ――女だ」
 床几《しょうぎ》に腰をかけた猩々《しょうじょう》の仮面《めん》は、
「おお、御身は女性《にょしょう》にて在《おわ》するな。何とて斯様《かよう》なる山中へ、女性の身一人にておわせしぞ。まして男の装いしたる有様こそ怪しけれ」
 ことさらにいうとも思えないほどの自然な調子、朗々たる音吐《おんと》で、雅文体の問答をしかけられましたので、捕えられた男装の婦人は、
「はい、小仏より上野原へまいる途中、駕籠《かご》を見失い、道に踏み迷うてこれへまいりました」
 面《おもて》を伏せて柔順《すなお》に答えました。
「して、何用あって上野原へまいらるる。御身はいずれの御出生ぞ、うけたまわりたし」
「たずねる人があって、江戸を立ち出でてまいりました」
「男の装い召されしは何故ぞ」
「道中が心配になりますから……」
「さりながら、女性《にょしょう》の男装して関所を越ゆるは、国のおきての許さぬことを、知らぬ御身にてはよもあらじ」
「それは存じておりますけれど」
 問われて窮する女の姿を、仮面の中より見下ろしていた猩々は、
「いかさまこれは、ことさらにわれらが楽しみをさまたげんとて来りしものとも思われねど、まずは詮議《せんぎ》の次第もあり。いかにおのおの、この女性を幕屋のうしろ、栗の大木の下へつなぎ置き、暫しの窮命をせさせたまえ。ただし、手荒に振舞いたもうなよ」
「畏まりて候」
 こういって鬼の面をかぶった数名のものが男装の女――いうまでもないお銀様を引立てて、幕屋の背後《うしろ》へ連れて行きました。
 そうして、猩々から命ぜられた通りに、栗の大木へ結《ゆわ》いつけましたけれども、特に手荒に振舞うべからずとの言葉添えが与《あずか》って力ありと見え、ただ、逃げられない程度に縛ったのみで、敷物まで持って来て坐らせました。
 お銀様は、どのみち、怖ろしい目に遭うべき暫時の後を期待して、覚悟をきめてしまいました。それにしても、いよいよ合点《がてん》のゆかないのはこの一団の集まりであります。こうして、舞いつ歌いつ、よろこび楽しむ分には、さのみ世をはばかる必要はあるまいに、この山中へかくれて、そうして張抜きの大筒《おおづつ》をこしらえるわけではなし、謀叛《むほん》の相談をしているとも思われない。いかに世上おだやかならずといえども、神楽をするに、隠れ忍ぶ必要もあるまいではないか。ことに打見たところでは、それぞれ仮面をかぶり、立派な衣裳道具を備えている。なお一団のものの会話が、中古の雅文体をそのままで、どうかすると近代の訛《なま》りが入る。大将分らしい猩々の音声は、清く澄みわたって、水の滴《したた》るような若さがある。とはいえ、一団の人、いずれも仮面《めん》をかけているから、品格のほども、年配のほども、一切わからない。狐狸妖怪の世界
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