は、すべての事情が、それを辞退して、別な生活に入らねばならぬ時と考えました。
とりあえず、乳母と、登と、自分と三人で、しかるべき家を借りて一世帯を持つことがいちばん賢明で、それで女手の生活に不安があるならば、与八のところを頼もうというのが、第二の考えでありました。
しかし、第一の考えからお松を急に、第二の考えに飛ばせてしまった事情は、立退き以前にこの屋敷を押囲んで焼打ちがあるという噂と、ちょうどこの際、与八がわざわざたずねて来てくれたことであります。
お松は、京都でも、江戸でも、この時代の不安な空気の中に住み慣れてはいましたが、自分ひとりの身ならばともかく、偶然ながら子持ちの身になってみると、今日は暗殺、明日は焼討ち、といったような空気が、そら恐ろしくなって、この屋敷に住んでいる以上は、自分たちもめざされはしないかという取越苦労なども起っていたところへ、与八がやって来て相談をかけたものですから、それに従うのが、いちばん安心だと、その場で心をきめてしまいました。
心がきまれば話は早い方がよいと、お松はそのつもりで御老女に暇乞《いとまご》いをすると、御老女も惜しみながらゆるしてくれました。そこで、与八のいるうちに出立の用意をととのえて、馬や駕籠《かご》も頼み、当分の間、乳母《ばあや》も附いて行ってくれるとのことだから、なお安心して、すべては非常に調子よく捗《はかど》ってしまいました。
そこで、この連中は、打揃って、程遠からぬ回向院《えこういん》の境内《けいだい》に、お君の墓参りをして行こうと、花と香とを携えて、門を出ようとする時に、どこからともなくムク犬が現われました。
「ムクや」
それ以来、ムク犬は使命を果して、房州から帰ったには帰ったが、人に姿を見せることが極めて稀れで、必要に応じてはどこから出るともなく出て来て、必要に応ぜざればどこに隠れているともなく、隠れていて出て来ない。
今、この人たちがうちつれて旧主の墓参りに出かけようとする時に、ヒョッコリ姿を現わしたので、一同の者がこの犬の出現を、いたくよろこび迎えました。
しかし、当の犬は、喜べる色もなく、勇める風もなく、一行の中にまじって、その行くところへ共に行き、その止まるところへ共に止まろうとする、柔順な態度に見ゆる。
ムク犬のこのごろは、我と我が生存の意義を見出そうとしているげに見ゆる。わが使命は、死んだ主人を守ることだけで尽きたのか。そうだとすれば、自分は当然|殉死《じゅんし》すべき運命のもので、今の生存は惰力に過ぎないのか。それとも、まだまだ生きとし生けるものの一生には、生かされてある間に、その使命が尽くるということのないものとすれば、第一の使命終って第二の使命は何。この犬は極めて謙遜、且つ従順の態度を以て、それを聞こうとしているようにも見える。自然、この犬には、主人の墓側で食を断って死ぬという古《いにし》えの忠犬に超出した高尚のふうが見える。
とまれ、この一行、お松は香と花を携えて先に立ち、乳母《ばあや》は登を抱き、与八は郁太郎を背負《せお》い、ムク犬はその間を縫うて、例の回向院の墓地の中に進んで行きました。
二十七
この一行が回向院の墓地へお墓参りに来た日、その境内《けいだい》の西洋奇術大一座がちょうど千秋楽の日でありました。
この興行は、大入り満員の売切れつづきで、すばらしい人気を博したのみならず、その人気に該当《がいとう》する実質を、見る人に与えたようです。たしかに、今までに見ないものを見せ、見た者を堪能《たんのう》させるだけの内容をそなえていたに違いない。
しかし、太夫元のお角は、興行が成功したほどに嬉しそうな面《かお》を見せないで、どうかすると癇癪《かんしゃく》を起して当り散らすこともあるようです。といって、そのくらいはどうも仕方がない。最初の期待では、まかりまちがえば骨になるくらいの度胸をきめていたのが、せっかく彫り上げた骸骨に牡丹の刺青《ほりもの》が役に立たず、諸肌《もろはだ》押しぬいでタンカを切る物凄い場面も見せないで済んだのが、何よりというものです。
お松、与八、ムク犬の一行が、回向院の墓地についた時分は、ちょうど、千秋楽の追出しの時刻で、今しも、場内にのまれていた幾千の観客が、潮《うしお》のように吐き出される時でした。
「オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]の下駄だようッ」
下足場の人ごみの中で、おそろしく下卑《げび》た太い声でわめき出したのが、キッカケで、そこから大混乱が起ったところです。
なんでも下駄を間違えたやつを、一人がなぐり飛ばしたのが原因《もと》で、芋を揉《も》むような下足場が、忽《たちま》ち修羅《しゅら》の巷《ちまた》となってし
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