なんだかばかばかしくもあり、いやな気にもなって、木剣を抛《ほう》り出し、そのまま頭をかかえて横になるとまもなく、軽いいびき[#「いびき」に傍点]で寝入ってしまいましたが、ずん[#「ずん」に傍点]と大きく、人間と同じほどに伸びた鼠の面《かお》だけが、夢の中に残って、夜もすがらおびえた[#「おびえた」に傍点]そうです。
二十六
その夜は、それだけで無事に明け、翌日、右のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、御岳山へのぼるといって立去りました。
与八が、急に江戸へ出かけたくなったのもその時で、それは今になって、お松の先日いった言葉をつくづく思い出したからです。お松さんのいうのには、あのお屋敷では御老女様に大へん可愛がられているが、本来、あの屋敷というのが、国々の壮士浪人の集まりで、いつ解散されるのだかわからない。もしや御老女様が遠方の国許《くにもと》へでもお帰りになってしまったあとは……と、それとなく身の行末に多少の不安を述べたのを、与八は耳にハサんでは来ましたが、もともと鈍感な男のことですから、今頃になって漸くそれを痛切に思い出し、わけを話して、こっちへ来て下さいといえば、来てくれない限りはあるまい……そう思い立つと、正直な心から、一刻も早く江戸へ出かけて、お松に念を押してみたくなったのです。
お松の方でも、与八の推察通り、今、自分の身の上について、多少の不安を感じているところです。
駒井甚三郎は、ムク犬の通知によって直ちに出向いてくれました。そうして、初めて持ったわが子というものに、母として、親としての一切の仕事を、お松に頼んだのであります。お松としては、頼まれなくてもこの子をてばなす気にはなれません。駒井甚三郎は、それがためにかなりおおくの費用をお松の手に渡して行きました。お松は、それを辞退しましたけれども、辞退すべき性質のものでないと諭《さと》されて、いさぎよく預かっておきました。
乳母《うば》を一人雇うて、念入りにそだてて、朝夕その子をだきかかえて楽しみにしていましたけれど、不安というのは、この屋敷で、どうもおだやかでない人たちの出入りがはげしく、自然、その筋でもめざされているし、いつきりこみがあるかわからない、というものもあるし、早晩、焼討ちになるだろう、と沙汰《さた》をするものもあるくらいですから、お松はそれが気にかかってなりません。御老女様はしっかりしておいでなさるし、集まるほどの人も血気の人には相違ないが、そう悪いことをする人たちではありませんから、危ないことはなかろうと思うけれど、万一、このお子さんに怪我があっては、という心配が絶えたことはないのです。
そこで或る日、お松は自分の部屋で赤ん坊を抱き、
「登様、あなたは田舎《いなか》へいらっしゃいますか、田舎はおいやですか」
と話しかけました。
話しかけたって返事のできるわけはありませんが、つい口に出て、
「おいやでなければ、田舎へお連れ申しましょうか。田舎といっても、そんなに遠いところではありませんよ、与八さんのいるところ」
坊やは、じっ[#「じっ」に傍点]とお松の顔を見て、笑いもしないでいるものですから、
「御存じでしょう、与八さんを。あの肥った、親切な人……」
その時、坊やは両手をおどらせて、うれしそうに笑いました。
「登様、もし、あなたがおいやでなければ、わたし、これから手紙を書いて、与八さんのところへ使を頼みますわ。与八さんはよろこんで承知をして下さるでしょう。ですけれども、もし、あなたがおいやですと……田舎に住んでいては出世のために悪いようですとつまり[#「つまり」に傍点]ませんから、いつまでもこっちにいましょうね。どちらに致します」
といって、お松は登の顔にほおずり[#「ほおずり」に傍点]をしました。どちらに致すも致さないもありはしない、生れてまだ幾月もたたない子。思案に余ったことがあるものですから、お松はしきりに、このおさな[#「おさな」に傍点]児に話しかけているのです。
「それは御老女様はえらいお方だし、このお屋敷は結構なお屋敷ですけれども、なんだか世間が騒がしいものですから、あなたや、わたしは暫くあっちへ行っていた方がいいかも知れない」
お松の心を、ドチラにかきめてしまわねばならぬ時節がまもなく来ました。
それはいよいよこの本所の相生町の老女の屋敷を引払わねばならぬ時が来たからです。噂《うわさ》によると、土佐の乾退助《いぬいたいすけ》という人が来て、ここに集まる浪士にすすめて、四国町の薩摩屋敷へ併合せしめたということです。
そうして、お松が主としてつかえた老女は、本国へ帰る途中、ひとまず京都に滞留するのだということです。
老女はどこまでもお気に入りのお松を手放したくはありませんでしたけれど、お松として
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