学の身びいき[#「びいき」に傍点]のみではありますまい。当時、駒井能登守を一流の新知識と知るほどのもので、この人物経済上の愚劣さかげんを笑わないものはなかったはずです。
しかし、これは笑うものがむしろ浅見で、当時の幕府の要路というものが、おのずから、そういうふうに出来ていたので、人物に異彩があればあるほど、また人物が大きければ大きいほど、グレシャムの法則がおこなわれていたのです。
試みに徳川の初世の歴史を見てごらんなさい。徳川家康が不世出の英雄とはいいながら、豊臣以来の御《ぎょ》し難き人物を縦横自在に処理し、内外の英物を適材適処に押据《おしす》え、雲の如き群雄をことごとく一手に収攬《しゅうらん》した政治的大手腕というものは、驚くに足《た》るべきもので――もとよりこの人は、日本のみではない、世界史上の第一流の政治家ではあるが――さりとはその末勢《まっせい》の哀れさ。今日の内外多事に当って、どこに人物がいる。辛《かろ》うじて勝安房守《かつあわのかみ》ひとりの名前が幕末史のページに光っているだけではないか。
その勝安房守をも、彼等のある者は極力光らせまいとして努力した。
勝は島田虎之助門下で剣術を修行した男である。剣術は出来るだろうが、畢竟《ひっきょう》ずるに剣術使いで、天下の枢機《すうき》を託すべき男ではない――また勝は一代の学者であるという評判に対して、なアにあれは正式の学問をした男ではない、いわば草双紙の通人だと。
彼等の考えでは、勝安房ひとりに幕末史を飾らせることは、彼等自身の立場の上から、たまらなかったものらしい。さりとて全部を誣《し》うるのは、全部を讃《ほ》めるのと同じように拙策である。そこで勝の持っていた一部分の技能、つまり剣術だけをウンと讃めて、他の技能をそれで隠そうとした。あわれ、日本の歴史に二度と応仁の乱を持ち来たさないように働いた知恵者を、かれらはどうかして剣術使いだけの範囲にまつり込もうとした。
そういった意味の時代のばかばかしさを、一学は久しぶりで逢った主人に向って訴え、且つそれが幾分か不遇の主人をなぐさめる所以《ゆえん》になるだろうと思っていたところが、案外のことに、主人はほとんどそれには取合わないほどの淡泊で、これも案外に思いました。
しかし、この辺のことを問題としていないわが主人は、別に独特の世界を見つめている、と一学は確認することができたので、その一夜の物語で何か自分に、非常に力強いものを与えられたような気がしました。
翌日の朝まだき、駒井甚三郎は、この家を辞して行きました。書物は取りによこすからそろえておいてくれるように、自分の居所はまだ明かせないが、そのうちくわしく知らせるからといって……
駒井が例の如く籐《とう》の鞭を振って立去る姿を、門に立った一学は、朝靄《あさもや》の中に見えずなるまで見送っていました。
二十
駒井甚三郎は、生きては再び足を踏む機会はあるまいと思ったわが家へ、計らず帰って見ると、そこにおのずから感慨無量なるものがあります。
連綿とつづいたわが家を、自分の代に至って亡ぼしてしまった。それも、自分にとっては問題にならぬことながら、社会的には無上の汚辱。どう考えても同情の余地のないふしだらのために、一代の嘲笑の的となりつつ葬られてしまった。
よし、駒井甚三郎は、わが身の愚劣と、世間の審判の愚劣とに呆《あき》れ果てて、別に天地を求めて生きるの道はいずれにも開かれているとはいえ、先祖の位牌に塗られた泥土は拭うべくもあるまい。また後代の駒井の家の祭りをここに絶った責《せめ》は免るべくもあるまい。
先祖に済まない――という家族制度の根本をなす思想は、この人を囚《とら》えて窒息せしむるに至らないまでも、決してその良心に安きを与えてはいないはず。
駒井は久しぶりで、わが家の敷居をまたいで、はじめて、この罪の執拗《しつよう》なことを強く感じました。そこで、彼は亡き父と母とのことを深刻に回想してきました。
家門の面目を生命より重しとする武士|気質《かたぎ》においては、父も母も変りはない。
その間に、ひとり子として生れたこのわれを、人並みすぐれた人にしてそだて上げたいとの希望は、世の常の親と同じこと。幸いにして、父母のこの希望は、家を譲る時まで空しくせられずに、ともかくも、このわれというものの生立《おいた》ちを、自慢にはしようとも、恥辱とはしていなかった。「駒井の家、これよりおこるべし」と人も讃《ほ》め、父もひそかに許していたこと。
頑固ながらも、目先の見えた父は、旧来の学問武芸の上に、進んで自分に洋学を学ばしめたこと。もし、父母の存生中にこの事件が起ったならば、父は必ず、われを刺し殺し、父母はさしちがえて死んでしまったに相違ない。
幸か不
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