百三十九年(天保十年)新嘉坡《シンガポール》で出版された日本語訳の最初の聖書。
 二人は書物庫から両手に一ぱい[#「ぱい」に傍点]の書物を抱え出して、再び以前の長屋へ戻り、
「一学、今晩はもうおそいから、ここへ泊めてもらおう」
 駒井甚三郎は、ついにその夜は一学と枕を並べて寝ることになりました。
「殿様、私はそれを申し上げてよいか悪いかわかりませんが――日頃胸にあることでございますから、お気にさわるまでも、今晩この機会に申し上げてしまいたいと存じます」
 一学があらたまっていいますから、駒井が、
「遠慮なくいってみたまえ」
「ほかでもございませんが、どうしてもわからないのは、奥方のお心持でございます」
「うむ、誰の心でも、そうはよくわかるものでない」
「と申しましても、あれほどあなた様を慕っておいでになりました奥方が、あまりと申せば手のうら[#「うら」に傍点]をかえすように、お情けないお仕打ちでございます」
「それも事情に制せられて已《や》むを得ぬことだろう、この浮世の階級とか情実とかいう、何百年、何千年来の圧迫を女の手で破れというのは、いう方が無理だろう」
「破れとは申しませぬ、むしろ従えと申し上げたいのでございます」
「よき破壊と、よき忍従とは、共に同じほどの力を要するものだ、難きを人に責めないがよい」
「難きを責むるのではございませぬ、常道を責むるのでございます。奥方のお振舞は、あなた様にとっては、まさしく叛逆なのでございます」
「叛逆?」
「と申し上げました無作法をお許し下さいませ。叛逆でなければ、復讐《ふくしゅう》でございます、人の妻として、世の女として、取るべき道ではござりませぬ」
「一学、そちは、常ならず昂奮しているが、わし[#「わし」に傍点]は何も知らぬ、知ろうとも思わぬが、叛逆という言葉はおだやかであるまい、もし、さる事実がありとすれば、叛逆はかれにあらずして、われにあるのだ、その当然のむくいとして、わしは復讐を甘受しなければならぬ」
「エ、何と仰せられます、殿様が、奥方にそむいたと仰せられますか。それはあまりに御寛大なお言葉でございます。一切を承知致しております私にとりましては、痛ましいほどの御寛大のお言葉でございます。甲州へおいでになる道中におきまして、毎日、日課として、こまごまとお文をお書きあそばしたあの御情合……」
 一学は声をつまらせてしまいました。しかし、駒井甚三郎は感情に制せられず、
「あれは常に気位を持っていた。気位というものは往々人を尊大に導いて、広い同情を忘れしめるものだが、その気位あるによって、犯し難い見識も品格も出て来ることがある。あれが堂上の出であり、高貴の血統ということは、わしにとっては、どうでもいいことであったが、その自負心から出でる天然の気品は、尊重せねばならぬと思っていたのだが、その自負心を根柢から動揺させたのが、誰あろう、この駒井の罪だ……甲州において、人もあろうに、あの君女《きみじょ》を愛したということが……駒井の愛情が、人交わりもできない身分の者に奪われたと知った時に、あれの気位が根柢から動揺するのはぜひもないことだ。あれの身になってみれば、それと知った時は、まさに死ぬより辛い侮辱を与えられたと思ったに相違ない――女というものが、その自負心を傷つけられた憤慨と、その愛を奪われた侮辱の苦痛の深刻な程度は、お前にもわかってはいまい、わし[#「わし」に傍点]にもわかっていなかったのだ。思えば、わしは一本の剣《つるぎ》で二人の女の魂を貫いてしまったのだ。その二人とも、今の世には珍しいほどの純な心であったのに、この駒井の一旦の情慾から、それを殺してしまったのだ。この復讐が来るならば、いかに深刻に来《きた》るとも甘受しなければならない」
 一学は、主人のいうところに熱情の籠《こも》ることを感じました。けれどもその論旨の意外なるに服することができません。
 一切の責《せめ》われにありと主人がいうのは、世の常の自制でもなければ、あきらめ[#「あきらめ」に傍点]でもない、真にその通りに自覚して己《おの》れを責むるの言葉としか思われないことが、一学にとっては甚だ意外でありましたのです。
 何となれば、一学は、今までわが主人のために、世間と人間とを責めてやまなかったからです。わが主人ほどの人材を容《い》れることのできない時代は、時代が悪いのだし、またわが主人ほどの男を愛しきれない女は、女が悪いのだと、強くそう感じていたからであります。
 これは、一学の観方《みかた》にも相当の道理あることで、幕府が今日の危機に立って、非常に人材を要する時にあたり、ささやかの失態によって、わが主人ほどの人物を閑地に置く(生きながら殺してしまった)人物経済上の低能さかげんを、冷笑しないわけにはゆきません。これは一
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