幸か、今の駒井甚三郎は、一婦人を愛したということが、それほどの罪とは、どうしても考えることができないから、それで死ぬ気にはなれない。
もし、自分にとって、死に価《あたい》する罪がありとすれば、それは別のところにある。
駒井の最初の考えでは、ただこの家へ読みたい本を取りに来たまでで、その用が済んだ以上は、さっさと柳橋の船宿へ帰り、一日も早く房州へ引き上げてしまおう。今もまた、その考えで、人通りのほとんどないほどの朝まだきに番町を出て、こうして、下町方面へ、無意識に急いでゆくうちに、むらむらと巻き起る考えが、駒井の足の向きを変えさせてしまいました。
この機会に父母の墓に詣《もう》で、先祖へ対する心ばかりの謝罪をするのも、無用なことではあるまい。こう思い出したから、駒井は足の向きをかえて、小石川の方面へとこころざしたものです。
駒井甚三郎の父母の墓も、先祖の墓も、小石川の伝通院にある。一族、親戚の墓も多くそこにあるはず。
ほどなく、安藤坂を上ると、伝通院の門前。まだ時刻が早過ぎるので、どうかと思ったが、見れば門前に、花を売る店が早くも戸を開いて、表の道の箒目《ほうきめ》もあざやかですから、駒井はその花を売る店へ寄って、
「お早う」
言葉をかけてみると、店を守るのは例の卒塔婆小町《そとばこまち》に似た一人の婆さんであります。
「いらっしゃいまし」
駒井は無雑作《むぞうさ》に店の中へ入って、
「お墓参りに来た」
「それはそれは、お早々と」
まもなく、駒井甚三郎は花と香とを携え、卒塔婆小町に似た婆さんは、箒と水とを携えて、伝通院の墓地へ通るのを見受けます。日が漸《ようや》くのぼりはじめて、寺では梵唄《ぼんばい》の響。
婆さんはかいがいしくお墓を掃除してくれる。駒井は花と香とをあげて礼拝《らいはい》する。父母と先祖と、それから、親戚のものにいちいち礼拝をして廻って、やがて、例の天樹院殿《てんじゅいんでん》の前までやって来ました。天樹院も、本多家も、多少、駒井の家と血縁を引かないということはない。駒井は、玉垣の門を開いてもらって、ここへもおまいりをして行くつもりです。香と花とを捧げ終って、駒井は何か物思うことあるが如く、やや離れて、天樹院の五輪塔を暫くながめておりましたが、
「婆さん」
箒をつかっている婆さんを呼んで、
「お前は、この天樹院様をどう思う」
「天樹院様をでございますか?」
「うむ」
「どう思うと仰せられましたのは?」
「つまり、いい人か、悪い人か、愛すべき人か、憎むべき人か……」
「左様でございますねえ……」
婆さんは箒の手をとどめて、今更のように天樹院殿の大きな石塔を仰ぎ、
「お美しい方であったと存じます」
そういってお婆さんは、にっ[#「にっ」に傍点]と笑って駒井の面《かお》をながめます。今に始まったことではないが、このお婆さん自身がむかし美しい女であったに相違ない。いや美しいというよりは、美しいそのものを売り物にした経歴をたどって来た女ではないか。つまり、それ[#「それ」に傍点]者上《しゃあが》り、そういったものが、晩年のいとなみ[#「いとなみ」に傍点]を墓守で暮らしているのじゃないかと、誰にも一応は想像されることです。
「お美しくなければ、あんな騒動は起りますまいから……」
と付け足したが、この返事は駒井の期待しているところには少しも触れない。
「それではお前、坂崎出羽守と本多中務《ほんだなかつかさ》と、どちらが仕合せ者と思う?」
「それはきまっておりますよ」
「ふーむ」
今度は駒井が微笑しました。駒井の微笑は、今の返答が、わが意を得たるところから来たもののようだと、婆さんは早合点をして、
「本多様は果報なお方でございますわね、それとくらべて坂崎出羽守様ほど御運の悪い方はありますまい……それというのも、あなた、殿方も男ぶりがやっぱりお大切でございますね。容貌《きりょう》を命とするのは女ばかりではございませぬ。仮りに坂崎様が本多様のようないい男であってごろうじませ、天樹院様だっておいやとは申しますまいよ」
これは婆さんが一歩立入って、充分にうがった[#「うがった」に傍点]つもりでしたけれど、駒井甚三郎は顔の筋一つも動かすことをしません。何とも響かないものと見えましたから、婆さんも張合いが少し抜けました。そのとき、駒井は、むすんでいた口を開いて、
「わし[#「わし」に傍点]は、そうは思わない、本多はやはり不幸な男だ、不幸な程度においては坂崎に劣らない」
といいました。
「どう致しまして、あなた、本多様がお不仕合せなら、この世に殿方の果報というものはござりませぬ。何しろ、豊臣|大納言《だいなごん》様のもとの奥方に思われて……命がけでお救い申し上げた殿御を、振りつけて、そうして思う存分に、絵に描いた美
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