、お嬢様、そう自暴《やけ》におかぶりになっては、第一のぼせて毒でございます、ちとお発《はっ》しなさいまし」
 傍へ寄って来て、かぶっていた夜具へ手をかけ揺《ゆす》ったものですから、その夜具が遽《にわ》かに躍り出すと、
「金公、なんといういけ[#「いけ」に傍点]図々しいんだい」
 むっくりとハネ起きざま、金助の横面《よこっつら》をイヤというほど食らわせたのは、お銀様ならぬ親方のお角であります。
「あ、これはヒドイ」
 金助はお角にハリ飛ばされた横面をおさえて飛び上ると、
「金公、お嬢様を逃がしたのはお前だろう、手前《てめえ》がよけいなことを喋りゃがったんだろう」
 お角はつづいて金助の胸倉をとりました。
「まあまあ、親方、そう手荒いことをなさらなくっても話はわかりますよ」
「この野郎、お嬢様によけいなことを喋りゃがって、手前が手引をして逃がしたに違いないんだ。そうして、よく図々しく来られたもんだね。さあ、どこへお嬢様を隠したかお言い、言っておしまい、言わないとこうだよ」
 お角は金助の胸倉をギュウギュウ締め上げますと、金助は眼を白黒して悲鳴を上げ、
「死ぬ……圧制……お梅ちゃん、助けて下さい」
 下でお梅も人が悪い。助けを呼ぶ声を聞き流して、腹をかかえて、声を立てないで笑いころげています。
「真ッ直ぐに言っておしまい」
 お角は金助を締めたり、ゆるめたり。
「親方、あの神尾主膳様が近いうち、田舎《いなか》を引払ってこちらへおいでなさるそうで」
「そんなことを聞いてるんじゃありません、お嬢様をどこへやりました」
「それは存じません。どうかもう少しここをおゆるめなすって下さい、咽喉《のど》がつまって声が出ませんから」
「正直にいっておしまい、あのお絹のおたんちん[#「おたんちん」に傍点]に頼まれたんだろう」
「決して、そういうわけじゃございません、現にこうして、お嬢様がここにお休みなすっていらっしゃるとばかり存じて、上って来たようなわけでございますから……」
「しらばっくれちゃいけないよ、今お前、下で何といったい、お嬢様にそっと申し上げてしまったとか、お力になって上げたとかなんとか言っていたろう、お前でなけりゃ、手引をして逃がす奴はないんだよ」
 そこで金助がスッカリ泥を吐かせられてしまったけれど、別段、この野郎が計略を構えて、お銀様をおびき出したというわけではない、ただよけいなことを喋《しゃべ》ったというだけにとどまるが、このよけいなお喋りのために、お角は大事の金主元を失い、これからのてちがいを心配してみると、この野郎の面《つら》が癪《しゃく》にさわってたまりませんから、
「ホントに、おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]ほど怖いものはありゃしない」
と言って、その横面をまた一つピシャンと食らわせたものですから、金助は生ける色がなく、お角の手が弛《ゆる》んだのを幸いに、丸くなって逃げ出し、梯子段をころげ落ち、土間へ辷《すべ》り出して、下駄を突っかける暇もなく、両手でひっつかんで、格子戸を押開け、はだし[#「はだし」に傍点]で外の闇へ逃げ出してしまいました。下にいたお梅は胆をつぶして、
「あらあら、金助さん、わたしの下駄を片一方持って行ってしまって……」
 これは笑いごとではない。金助はあわてて自分の穿いて来た後丸《あとまる》の下駄と、お梅の大事にしていたポックリ[#「ポックリ」に傍点]を半分ずつ持って逃げ出してしまったものだから、お梅は泣かぬばかりに口惜《くや》しがって、あとを追っかけてみましたけれど、どこへ行ったか影さえ見えません。
 これはお梅にとっては一大事で、南部表にしゅちん[#「しゅちん」に傍点]の鼻緒。鼻緒にも、蒔絵《まきえ》にも、八重梅が散らしてある。当人も自慢、朋輩《ほうばい》も羨ましがっていたポックリ[#「ポックリ」に傍点]を、半分持って行かれたから、口惜しがるのも無理はありません。みんな持って行かれたわけではない、半分は残っているのだけれど、下駄の半分ばかりは、残されたところで有難がるわけにはゆかない。
 二階ではお角がおかしくもあるし、腹も立って、それでも、あの野郎、神尾の殿様が来るとか来ないとか、頼まれた用事もあってやって来たらしかったが、それをいい出す暇もなく逃げ出してしまった。こちらもなお聞きただしたいこともあったのに、かんしゃく[#「かんしゃく」に傍点]紛《まぎ》れにとっちめて、薬が利《き》き過ぎた。しかし、どのみち二三日たてば、ケロリとして出直して来る奴だと思いました。
 おかしかったのはその翌日の朝、両国橋の女軽業のおちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]の一人が目の色をかえて、お角のしもたや[#「しもたや」に傍点]へ飛び込んで来て、
「親方、大変です、梅ちゃんが心中をしてしまいました」
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