その声を聞きつけて挨拶に出たのが当のお梅でしたから、両人顔を見合わせて、これはこれはとあきれました。
「梅ちゃん、お前ここにいたの?」
「ええ、いましたとも、心中なんかしやしないわ」
「でも、たしかに梅ちゃんだって、みんなが言うから、わたし、ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と見届けて来たのよ」
「そんなはずはないわ、わたしはここにいたんですもの」
落語の二人久兵衛のような話で、二人ともに煙《けむ》に巻かれてしまいました。
あんまりおかしいから、お梅がよく尋ねてみて腹を立てました。
それはこういうわけです。
心中があると騒ぎだしたのは、この朝、両国橋に男物と女物との下駄が半分ずつぬぎ捨ててあったのを、通りがかりのものが見つけ出して、それ心中だと大騒ぎになり、例によって黒山のように人だかりがはじまった中へ、女軽業のおちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]連《れん》もかけつけて見ると、女物の下駄に見覚えがある。
「あら、このポックリ[#「ポックリ」に傍点]は梅ちゃんのだわ、ちがいないわ」
そこで、心中の片割れは、親方のお気に入りの娘分、お梅にまぎれもないということになってしまい、早速こうして御注進に駆けつけてみると、心中の片割れであるべきはずの御当人が、平気で挨拶に出たから双方あっけに取られた始末です。
注進に来た、おちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]の方は、まあ間違いでよかったと安心したが、納まらないのはお梅で、
「ばかにしているよ、あんな奴と心中なんかするものか」
ぷんぷんと腹を立てました。
「あんな奴って誰のこと?」
おちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]は合点《がてん》ゆかない。
「何だ、あんな奴と心中なんか、誰がするもんか」
おちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]にはお梅の不機嫌なわけが、いよいよわからない。
「女物はたしかに梅ちゃんのに違いないが、男のは後丸《あとまる》のしゃれた[#「しゃれた」に傍点]形なのよ」
「ふうちゃん、外聞が悪いから、早くその、わたしのだけを持って来てしまって頂戴な、男のなんかかまやしませんよ、川の中へ蹴込んでおやりなさい、このごろは下駄泥棒がはやるんですとさ」
「それじゃ、梅ちゃん、お前さんの下駄を盗まれたの?」
「大抵そうなんでしょう」
「まあ。でも無事で安心したわ、早くその下駄を持って来ちまいましょう」
「持って来て頂戴」
おちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]は大呑込みにして、急いで行ってしまう。
「ホントにばかばかしいったらありゃしない、金公の野郎、覚えていやがれ」
余憤容易に去らず、これは昨晩、金助が両国橋まで一目散《いちもくさん》に逃げて、さてその下駄を突っかけようとして見ると、片一方だから、やむを得ず、そこへ並べて置捨てにしていったものに相違ない。
これがためにあらぬ浮名を受けたお梅は、相手が相手だから、浮名儲《うきなもう》けにもならないと思って、しきりに口惜《くや》しがっているのをお角が慰めて、
「まあ我慢おし、そのうちあの野郎が来たら、水をブッかけておやりなさい。それから今日はちょっと[#「ちょっと」に傍点]廻り道をして行きたいから、早く出かけましょう、梅ちゃん、そのつもりで支度をし」
ほどなく軽業小屋から留守番に来た女連《おんなれん》といりかわりに、お角はお梅をつれてこの家を出て行きました。
いつもならば直接《じか》に回向院《えこういん》の興行場へ行くのに、今日はどこぞ廻り道をするところがあるとみえます。
十九
お角はお梅をつれて柳橋の遊船宿に立寄り、駒井甚三郎を訪ねてみましたが、不在とのことであります。
不在といっても、房州の洲崎《すのさき》へ帰ったのではない、昨日の夕方、ただひとりでどこかへ出かけていったままだとの返事でしたから、お角も少し失望しました。
しかし、お角は必ずしも駒井だけを当てにして来たのではないと見えて、そのまま素直に踵《きびす》を廻《めぐ》らしてしまいます。
船宿の亭主が答えたように、駒井甚三郎が、昨夕《ゆうべ》宿を出てまだ帰らないことは事実であります。どこへ行ったか、それは別段、問題にするほどのことではない。その夕方、駒井はどう気が向いたものか、絶えて久しく訪れなかった番町の自分のもとの屋敷の方へ、おのずと足が向いたのであります。
人通りの少ない時、明りのしているお長屋の前に立って、駒井は暫く様子をうかがっていましたが、
「一学、一学」
と駒井は低い声で呼びました。
お長屋のうち、ここだけが明りがしていたから、その明りをたよりに呼びかけたところが、
「ナニ、誰じゃ、どなたでござる」
中では、やや狼狽《ろうばい》したものの返答ぶりです。
「一学、おるか」
「へえ……」
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