足場を二段下ろして、風大《ふうだい》を揺り落し、その次は火大《かだい》、その次は水大《すいだい》、最後に地大《ちだい》を揺り動かして、かくて夜明けまでには本来の大地に、生身《しょうじん》の心耳《しんに》をこすりつけて、幽冥の消息を聞くことが必ずしも不可能とは思われません。
ただ、迷惑千万なのは、五輪塔自身で、安政の地震にさえ何の異状もなかった身が、今晩になって、突然上の方から沙汰なしに取崩されようとする運命を、おどろき呆《あき》れて手の出しようもない有様。しかし、自分をこうも無茶に取崩しにかかる身の程知らずの運命をも、やがてまた哀れむべきものだと、内心気の毒がってもいるらしい。
全く、その通りで、たとい取崩しに成功してみたところで、やがてその身に報い来《きた》る咎《とが》を思えば、空怖《そらおそ》ろしいものがある。頼山陽の息子は、寛永寺の徳川廟前の石燈籠《いしどうろう》を倒して、事面倒になったことがあります。それは酔っていたということではあり、なんにしても石燈籠のことで、謝罪で事は済んだ。けれどもこれは徳川宗族の墓地を荒して、その霊を辱《はずか》しめたということになると、非常にあぶないが、無論、米友は、それを考えてはいない。それを考えては、またこんなこともできない。また、この際、そんな前後を考えている余地のあるべきはずもありません。
「友造さん」
「エ?」
もう一息、空大を押しきろうとする時に、米友はその手を休めて、あわただしく塔下の前後左右をながめました。まさしく自分を呼ぶ声があったからです。
「友造さん、まあ、そこで何をしているの、そんなところで……」
「あ、お婆さんか」
米友が塔の上から腰をかがめて、塔の周囲に建てめぐらした石の玉垣の入口で見つけたのは、絵にある卒塔婆小町《そとばこまち》が浮き出したような、白髪《はくはつ》のお婆さんであります。
「ああ、わたしだよ、ほんとうに、びっくり[#「びっくり」に傍点]させるじゃありませんか。なんだって今時分、そんなところへのぼって何をしているんです」
「あ、あ……」
米友が呆然《ぼうぜん》として円い眼を瞬《まばた》きをして、初めて暮色の暗澹《あんたん》たるにおどろきました。
「第一、お墓の上へのぼるなんて、勿体《もったい》ないことですよ」
「うウん」
「それは天樹院様のお墓ですよ、早くおりておいで……」
「うウん」
米友は、そこで円い眼をみはって、うん[#「うん」に傍点]とうなりました。
「早くおりておいでな、天樹院様のお墓の上へのぼって、何をなさるつもりなの」
卒塔婆小町の浮き出したような白髪の婆さんは、やさしく米友をたしなめると、
「エ、これが天樹院様のお墓か?」
塔の上で米友が叫びました。
そうそう、これほどに暮色がせまっていないならば、米友といえども、文字のある男だから、向う正面を、じっと見上げて立っていた時に、碑面にしるされた文字――
[#ここから1字下げ]
「天樹院殿
栄誉源法松山
大禅定尼」
[#ここで字下げ終わり]
が読めなかったはずはない。側面へまわれば「寛文六年二月六日」の忌日《きじつ》の文字までも瞭々《りょうりょう》と見えるはずであったのに――
二代将軍を父に持ち、豊臣秀頼を夫として、大阪の城に死ぬべかりし身を坂崎出羽守に助けられ、功名の犠牲として坂崎に与えられるべかりしを、本多|忠刻《ただとき》と恋の勝利の歓楽に酔って、坂崎を憤死せしめた罪多き女、その後半生は吉田通ればの俚謡《りよう》にうたわれて、淫蕩《いんとう》のかぎりを尽した劇中の人、人もあろうに宇治山田の米友は、この女のために、無用の力を絞っていました。
十八
両国橋の女軽業《おんなかるわざ》の親方お角は、その夕方自宅へ帰って来ると、早くも家の様子でそれと知って、歯ぎしりをして口惜《くや》しがったのは申すまでもありません。
「ちぇッ!」
と男のするように舌打ちをして、二階へ上って見る気にもならなかったのです。
「わかってる、わかってる、知恵をつけた奴はわかってるよ、何かにつけてケチをつけたがるあのおたんちん[#「おたんちん」に傍点]め、どうするか覚えていやがれ」
とののしったのは、当のお銀様のことではありません。また、お銀様に向ってよけいなことを喋《しゃべ》った金助のことでもありません。お角はそれを通り越して、いちずに向っているのがお絹のことです。こうしてお銀様を逃がしたのは、てっきり[#「てっきり」に傍点]お絹の指金《さしがね》にちがいないと、いちずに思い込んでしまいました。
もとより、これは前例のないことではない。いつぞやも、せっかく人気を集めた清澄の茂太郎を中途からかっぱら[#「かっぱら」に傍点]って、こちらに鼻を明かせたのもあいつの仕業《しわざ》
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