ながめていると、
「この石を取って下さい……この石さえなければ、友さんとわたしと自由に話ができるんですけれども……この石が一つあるばっかりで、お前とわたしとは世界が違うんですから悲しいわ、どうしても会えない別々の世界にいるんですもの……」
米友はその声を聞くと、その声の起った自分の耳朶《みみたぶ》を掻《か》きむしって地団駄《じだんだ》を踏みました。
程なく、宇治山田の米友は、その巨大な五輪の石塔の上へよじ上《のぼ》り、力を極めて、その空輪を動かしはじめました。
いうまでもなく、この男は、生と死との間をさかいする蓋《ふた》に手をかけて、これを取り除こうとあせり出したものと見える。
で、その次の世界から聞える声を、この世で聞こうとあこがれているにちがいない。
こういう挙動を笑うものは、まだほんとうに死というものの哀切を、味おうた経験のないものであります。
かりに諸君のうち、その最愛の子女の一人を、失ったものがあるとしてごらんなさい。現在自分がその最後の病床から、野辺のおくりまで見届けても、なお途中で、それによく似た年ごろ恰好《かっこう》の子女にであってごらんなさい、われ知らず前へまわって、その面立《おもだ》ちを見定めなければ立去れないことがある。死というものが万事の消滅だと事実が証明しても、空想がそうは信じさせようとしません――しかも、人生のことは空想が大部分で、人は事実に生きるよりは、むしろ空想に生きているのであります。
聖人は空想と事実とをよく統一する。狂人はそれを混同する。凡人は、その間《かん》に彷徨《ほうこう》して醒《さ》めたるが如く、酔えるが如し。
さてここに、宇治山田の米友に至っては、空想と事実との境界が、ほとんど判然しない。この男は人間のこしらえた差別線と高低線に対しては、先天的に色盲のような男で、どうかしてその線にひっかかると、眼の色を変えて怒り出す。この男の怒り方は、反抗的、或いは相対的に怒るのではありません、先天的に怒るのであります。とはいえ、この男を狂者と見るには、あまりに道義的で、同時に常識的のところがあります。
今や、不幸にしてこの男は、人生の水平線がわからなくなっているように、死と生との分界線がまたわからなくなっているのであります。死が万事の消滅だと信じきれなくなっているのであります。ああ、この何千貫の石の蓋は、かよわき女性のためにはあまりに重い。この蓋あるがゆえに、魂がこの石の下で呻《うめ》き泣いている。
我々にとって、この重し[#「重し」に傍点]というものはかなりにこた[#「こた」に傍点]える。死して後にこた[#「こた」に傍点]えるのみならず、生ける間にこた[#「こた」に傍点]えていた。我々凡人は、単に生れどころが悪かったというだけの理由で、ずいぶん、意味のわからない重し[#「重し」に傍点]を、かけ通しにかけられて来たようである。おれ[#「おれ」に傍点]はまだ生きているし、おれ[#「おれ」に傍点]の身体は小さくとも、まだまだ充分その重し[#「重し」に傍点]に堪えられる力はあるつもりだが、お君は死んでしまった。死んで後までもこんな重い物をかぶせて、魂を幽冥《ゆうめい》の下までも咽《むせ》び泣かしむる人間というものの仕様《しわざ》の、愚劣にして残忍なることよ。
そこで、宇治山田の米友が、高さ二丈を数える巨大な五輪塔の上によじのぼって、その風大《ふうだい》の上に足をふまえて、頂上の空輪を取ってのけようとする努力には、彼の持っているあらゆる力が一時に加わりました。
前にいう通り、この五輪の石塔の主《ぬし》の何者だということは、碑面にはまさしく銘《きざ》んではあるが、暮色|糢糊《もこ》たるがために、読むことができなくなっていました。米友としてはこの墓地は、伝通院殿をはじめ、多くは徳川氏系統の貴婦人の墓を以て充たされているということだけの予備知識はあったのですから、無論、この塔も、さるやんごと[#「やんごと」に傍点]なき婦人たちの石塔の一つに相違はないと思っていたのが、いつか知らず、お君の墓ということになってしまっていました。
伝通院殿――なにがし[#「なにがし」に傍点]の高貴なる婦人――高貴ならざる婦人――同時に一般の婦人――ただ一人の婦人――お君――虐《しいた》げられたる女――それが今この重し[#「重し」に傍点]にかけられている。
そこで米友の力には、虐げられた女性のために、一つにはこの圧抑《あつよく》を除き、一つには幽冥の境を撤去開放しようという勇猛力が加わりました。
そうしてこの男は、双の腕に満身の力をこめて、満面に朱をそそぎ、五輪の塔の空輪をグラグラと動かしました。
この怪力を以てすれば、空大《くうだい》を頂上から揺り落すことはできるかも知れない。それが成功すれば、次は
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