芸妓にもそれを適用しなければならないし、遊女の源氏名にも無論、様をつけて呼ばなければならない理窟になる――それでは、知らぬ面《かお》の半兵衛とか、来たり喜之助とか、川流れの土左衛門とかいうものに対しては、どうです――という奇問に対しても、先生は少しも驚かず、いやしくも、人格を表明した存在物には、有名であろうと、無実であろうと、そこに区別を立てるようなことがあってはならぬと主張し、最後に、
「さあ、そこでもし、これから後で、愚老が、かりにも人様を呼ぶのに様づけを忘れた場合には、それを一番先に見つけ出したお方様に百ずつ進上する、軽少ながら百ずつ……」
といい出しましたから、子分たちは勇みをなして喜び、いつか先生の尻尾《しっぽ》をつかまえて、百の罰金をせしめてやろうと、腕により[#「より」に傍点]をかけました。どのみち、ひっかかるにきまっている。思えば先生もツマらない約束をしたものですが、先生としては大得意で、天晴《あっぱ》れの名案を考えたつもりで、やがてこの席を終り、薬籠持《やくろうもち》の国公を伴って、都大路をしゃならしゃなら[#「しゃならしゃなら」に傍点]と歩み出しました。
十七
宇治山田の米友は、このごろ深刻に苦しんでいます。
死というものに初めて直面した苦しみを、まとも[#「まとも」に傍点]に受けて、八百長なしに取組んでいるのですから、その苦しみは惨憺《さんたん》たるものであると共に、名状すべからざる奇観です。
米友といえども、死というもののこの世(或いはあの世との境)に存在することを、いま初めて知ったわけではありません。今更、足もとから鳥の飛び立ったように、「死」というものに驚きさわぐのは、滑稽なようですけれども、「死」の存在を知って、その来《きた》る瞬間までそれを怖るることの少ないのは、多くの人間の常であります。
「今までは人のことだと思いしに、おれ[#「おれ」に傍点]が死ぬとはこいつ[#「こいつ」に傍点]たまらぬ」――死の来る目前まで、舞踏歓楽し、死の直面に来って、はじめて恐怖狼狽する人間の通有性を、米友もまた御多分に漏れず持ち合わせていればこそ、こいつ[#「こいつ」に傍点]たまらぬと噪《さわ》ぎ出したのか知ら――いや、当人はピンピンしている。まだたたき殺しても死にそうもない体格に、ゆるみは来ていない。事実、この男は一度も二度もたたき殺されているのだが、容易に死なない。今もまだその通りで、おれ[#「おれ」に傍点]が死ぬとは思っていないが、死というものが、見るもめざましく眼前に押寄せて、自分を窒息させようとしているのに、それにまとも[#「まとも」に傍点]にぶつかって、周章狼狽しているのです。
壁を穿《うが》って海を発見したように、土を掘って天を見出したように、お君というものに死なれて、そこから涯《はて》と底との知れない冷たい風が、習々《しゅうしゅう》として吹き出したのに、米友は、恐れ、あわて、おどろき、悲しみ、憂えて、名状すべからざる奇観におちいっているのであります。
そうして、なお悲惨なのは、米友にあっては、この苦痛をまぎら[#「まぎら」に傍点]かす手段のないことであります。真正面からその苦痛と戦って、直接に解決が終るまでは、一時何かの魔睡によって、その神経を眠らせておくということのできない男であります。
その夕方、伝通院の墓地にまぎれ込んだ米友は、墓地の中をあてどもなしに歩き廻って、しきりに墓を動かしてみました。
伝通院は家康の生母水野氏の廟所《びょうしょ》。そこには徳川氏累代の貴婦人の墓が多い。或いは無縫塔、或いは五輪、或いは宝篋印《ほうきょういん》、高さは一丈にも二丈にも及ぶものがあって、米友の怪力を以てしても、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]とは動かし難いものばかりであります。
しかし、この男は、それらのいずれともつかずに、しきりにそれをゆすり試みて歩いている。その様、墓を動かして、そこから何物をか聞こうとするもののように見える。
「墓はこの世からあの世へ通ずる道の蓋《ふた》である」と誰やらが教えた。さればこそ、この男は、蓋を開いてあの世の人のたよりを聞きたがっているのだ。
ほどなく米友は、非常に大きな五輪の石塔の前に立っている。石塔の高さは台石ともに二丈もあろう。碑面の文字は、模糊《もこ》たる暮色につつまれて見えず、米友は、呆然《ぼうぜん》として腕組みをしながら、立ってその石塔をながめていると、
「友さアん、この石を取って下さいな、この石があんまり重いので、出ることができませんわ」
米友はハッと自分の耳を疑いました。今の声は果して墓の底から出た声か、それとも自分の耳から出たのか。
「え、何といった」
米友は両手を耳に当てて、屹《きっ》と五輪の塔の空輪《くうりん》の上を
前へ
次へ
全72ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング