のやかましいのに我《が》を折って妥協を申し入れると、デモ[#「デモ」に傍点]倉もやむなく沈黙しました。
「さて皆様、よくお聞き下さりましょう、ただいまも申し上げた通り、病人と、医者と、薬の三つは、切っても切れぬもので、つまりこれが三位一体《さんみいったい》というやつ……それで病気というやつは、とりついたが最後、貴賤上下の隔てはねえ、北辰《ほくしん》位高くして百官雲の如く群がるといえども、無常の敵の来《きた》るをば防ぎとどむる者一人もなし、と太平記に書いてある」
「なるほど」
 これは弥次ではなく、豆腐屋の隠居が思わず発した感嘆詞でありました。道庵は言葉をついで、
「そこでまた薬というやつが、苦《にが》いのもあれば辛《から》いのもあって、百味の箪笥《たんす》にちゃんと納まっているが、いざ、人の腹中へ行って働きをしようという場合には、すべて平等一味のもので、こやつは店賃《たなちん》を払わねえから利《き》いてやらねえの、あれは付届けがいいから贔屓分《ひいきぶん》にしてやれとはいわねえ……」
「左様でゲスとも、薬と差配のハゲと一緒にされちゃ堪らねえ」
 道庵先生は、それを耳にも入れず、
「だから、医者というやつも、貴賤貧富によって、匙加減《さじかげん》があってはならねえのだ……」
といって、ソレから自慢をハジめたり、ひとをコキおろしたり、大気焔を上げましたが、結局今日の集会の要領は、今まで自分は十八文を標榜《ひょうぼう》して、貴賤上下に、この医術に基づける平等説を実行しているが、まだ人間を差別的に見る癖があって、まことにお恥かしい次第であると気がついたから、今後は徹底的にそれを実行するてはじめとして、まずすべての人を軽蔑しない意味において、今までのように、野郎や、貴様呼ばわりを全廃し、誰人に向っても「様」という字をつけて呼ぶことにするから、左様心得てもらいたいという言い渡しでありました。
 初めに処女の如き「皆様」の様づけも、多分その辺から出たのでしょう。
 道庵先生の説によると、医者としての自分の職掌上、病気や薬と同格に、すべての人を待遇しようという好意に出でたのにはちがいないが、これを実行に先立って発表してしまったのは、少々|逸《はや》まったようです。
 果して、さまざまの弥次や、質問や、難題が続出しましたけれど、先生は少しも撓《ひる》まず、最後までそれを説伏するの意気込みは勇ましいもので、自分にしてからが、上様だとか、公方様《くぼうさま》だとかいう口の下から、現在自分が世話になっている大切の薬籠持《やくろうもち》に対しては、国公だの、この野郎だのと、頭ごなしにやっていたのは、相済まないわけである、今後は上様、公方様、殿様、爺様、婆様、おびんずる[#「おびんずる」に傍点]様並みに、国公を呼ぶにも国公様を以てする――門弟の道六に対しても、子分のデモ[#「デモ」に傍点]倉、プロ[#「プロ」に傍点]亀らに対しても、お出入りの馬鹿囃子に対しても、野幇間《のだいこ》の仙公に対しても、その通り、例外というものがあっては平等が意味をなさないと、スバらしく気焔を揚げたものです。すると物和《ものやわ》らかな豆腐屋の隠居が、
「先生、それではいかがでゲスな、物の本に出ておりまする昔の英雄、豪傑といったような者も、みな『様』づけでお呼びになりますか」
「そうだとも、無論のことだ、英雄、豪傑というものは神様の次だ」
「そう致しますると先生、弓削道鏡様《ゆげのどうきょうさま》が和気清麻呂様《わけのきよまろさま》を……」
「そうだとも」
「楠正成様が足利尊氏様に亡ぼされ……」
「その通り」
「曾我の兄弟様が工藤祐経様《くどうすけつねさま》をお討ちになった……」
「それに違いないじゃねえか」
「太閤様のところへ、石川五右衛門様が盗賊にお入りになった……」
「そうだとも」
「それじゃ先生、どちらがいい人間だか、悪い人間だか、わからなくなっちまいますね」
「べらぼう[#「べらぼう」に傍点]様、天のような広い心を持て。天は悪い奴にも、いい奴にも、おなじように日を照らせたり、雨を降らせたりする」
 先生の気焔が、いよいよあがって、ものやわらかな豆腐屋の隠居では受けきれなくなりましたから、デモ[#「デモ」に傍点]倉が代って出ました。
「そうすると先生、たとえば芝居を見にいってもですね、団十郎様が由良之助様《ゆらのすけさま》をおやりになったとか、九蔵様の実盛様《さねもりさま》を拝見して来たとかおっしゃるんですか」
「そうだとも。第一、役者だからといって、横町のおちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]までが呼捨てにするのは怪《け》しからん、氏《うじ》とか、様とかつけるべきものだ。昔は女寅閣下という名を使ったものさえある」
 そこで、芸名を呼ぶに様をつけて敬意を表する以上は、
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