をするような文句を唱えながら、通りかかって、あっと面《かお》の色を変えました。
 というのは、その社前の立木を汚《けが》して、一人の女が縊《くび》れていたからです。
 鹿島の事触は、これを見ると立ちすくんで、大声をあげて人を呼びました。
 そこで、忽《たちま》ち人が集まって、その縊《くび》れっ子を調べてみると、それはこの温泉駅では誰も知っている物売りのお六でありましたから、いっそう騒ぎが大きくなりました。
 そこで、評判と臆測が、たちまち町中いっぱいにひろがりました。
 あの愛嬌者が、どうしてこんなことをしでかしたのか。孫次郎の宿で聞いてみると、昨晩遅く目の色を変えて飛び出したのが変だとは思ったが、それはお万殿の時刻までにと、大あわてにあわてて、自分の家へ帰ったのであろうとばかり思っていたが、そういわれると思い当ることがないでもないといっています。
 しかし、この女が、縊れて死なねばならぬ事情というのは、誰にも、どうしても思い当らない。竹細工師で情夫とも御亭主ともなっている、気のよい男をただしてみても、いっこうあたりがつかない。そこで、当然、魔がさしたのだ、その魔がさしたのは、いましめ[#「いましめ」に傍点]を忘れて、お万殿のお詣りの時間を犯し、その怒りに触れたために、この始末だろうという説が最も有力でありました。
 死骸は一通り検視を受けた上に、ともかく、間近の孫次郎の宿の一室へ引取られて、そこへ静かに横にして置きますと、ちょうど来合わせた巫女《いちこ》があります。宿の女中たちは、巫女を呼んで、この女のために口よせ[#「よせ」に傍点]を頼み、その非業《ひごう》の魂をやわらげると共に、無告《むこく》の訴えを幽冥界から聞こうとしました。巫女は心得て、樒《しきみ》の葉に水を手向《たむ》けて、あずさ[#「あずさ」に傍点]の弓を鳴らし、
「そもそも、つつしみ、うやまって申したてまつるは、上《かみ》に梵天《ぼんてん》帝釈《たいしゃく》四天王《してんのう》、下界に至れば閻魔法王《えんまほうおう》……」
 もっともらしく神おろしをはじめたが、時が時でしたから、笑う者がありませんでした。
 この口よせ[#「よせ」に傍点]のいうことは、一向とりとまりはないが、その文句のうちに、「口惜《くや》しい悲しいで気がとりつめ」とか、「この魂が跡を追いかけて引き戻してくる」とか、「東は神宮寺、西は阿礼《あれ》の社《やしろ》より向うへは通さぬ」とか、髪をふり乱し、五体をわななかせ、油汗を流して、呪わしい言葉を口走っている。それを正直に女中たちは、身の毛をよだてて怖れている。その時どうしたのか、急にこの席を外《はず》して立ったのが、この宿の番頭で、まっくろい面《かお》をしながら、うろたえて帳場へ戻って坐り込んだが、落着かないで、物につか[#「つか」に傍点]れたように眼を据《す》えている。
 昨晩、女が血相変えて飛び出したのを、留めてみたのもこの番頭で、あの前後のことをうすうす知っているから、只今の巫女《いちこ》の出鱈目《でたらめ》がこの上もなく気になって、席に堪えられなくなったものと見える。
 番頭がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]して帳場へ坐り込んでいるところへ、今朝早立ちをした仏頂寺弥助が先に立ち、後ろには戸板に人を載せて人足に担がせて、ドヤドヤと店頭《みせさき》へ入り込み、
「塩尻峠の上でちっとばかり怪我をしたから戻って来た、また厄介になるぞ」
 番頭は、この時、面色《めんしょく》が土のようになり、よく戻っておいでになりましたともいいませんでした。

         十六

 さてまたここは江戸の下谷の長者町。道庵先生は何を感じたものか、俄《にわ》かに触れを廻して、子分のならず[#「ならず」に傍点]者や、近処のワイワイ連を呼び集めました。
 何事ならんと馳《は》せ集まった者共を前に置いて、先生は薬研《やげん》の軸を斜《しゃ》に構え、
「皆様、早速お集まり下さいまして……」
 先生としては、極めて鄭重《ていちょう》な物のいいぶりでしたから、集まったものが、少し様子が変だと思いました。
 変だと思ったのも無理はありません。こういう場合において先生は、いつも野郎共呼ばわりをして傍若無人に振舞うのに、今日に限って、皆様だの、お集まり下さいましてだのと、改まり方が急激でしたから、集まったものも、あんまりいい気持がしませんでした。
 けれども、何か、先生も急に発心《ほっしん》したことがあればこそ、こう殊勝に改まったものに相違ないと思うから、みな、神妙にうけたまわっておりますと、先生はおもむろに、
「さて、皆様、実は拙者も、近ごろ悟るところがございまして、皆様の前で、今までの非を改めると共に、今後をお約束致しておきたいことがあるのでございます、それでお忙がしいところ
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